2010年11月13日土曜日

薬師如来の守り神 十二神将の謎 その2

その1では あさみさんから貴重な意見頂き、新しい発見もありましたが、
また余計分からなくなった部分も出てきました。

そこで今まで経緯と整理・・出典を明確にしながら整理してみました。

でも結論から申しますと、いろんな説があって「混沌の世界」で自分的に納得できる証拠を見つけることができませんでした。
 従って、今回はここで一休みとさせていただきます。
また新しい情報があれば更新することとします。


<そもそもの疑問の発端は> 
山岡荘八「徳川家康」第1巻P103に書かれている内容で、
於大が侍女の百合に対して、「鳳来寺の薬師さんから、これから生れてくる子(竹千代:後の家康)の寅年守り神である普賢菩薩 真達羅大将の像を盗んできなさい」と命令します。

そこで ネットで
「十二神将像(仏像事典)」 http://www.butsuzou.com/jiten/12sinsyo.htm
 で調べたところ、寅年の守り神は迷企羅大将となっており、真達羅大将は酉年の守り神になっているではありませんか?

参考までに調べた結果

 『徳川家康』での鳳来寺記述内容 ()内干支は推定   仏像事典   

於大  亥年生まれ 宮毘羅大将(くびら) 弥勒菩薩    子年
    (戌年生まれ) 伐折羅大将(ばさら)             丑年
    (酉年生まれ)  企羅大将(めきら)           
    (申年生まれ) 安底羅大将(あんてら)          卯年

    (未年生まれ) 額爾羅大将(あにら)            辰年
百 合 午年生まれ 珊底羅大将(さんてら) 虚空蔵菩薩  巳年 
    (巳年生まれ) 因達羅大将(いんだら)・          午年  
    (辰年生まれ) 波夷羅大将(はいら)・・          未年 
    (卯年生まれ) 摩虎羅大将(まこら)・           申年 
竹千代 寅年生まれ 真達羅大将(しんだら)普賢菩薩    酉年
    (丑年生まれ) 招杜羅大将(しょうとら)          戌年
    (子年生まれ)  毘羯羅大将(びから)・          亥年 




『徳川家康』と異なる。この疑問を解決できずに悶々としていた。
十二神将を逆から数えればいいのだが・・・まあいいか。
しかし何でお寺によって正順・逆順があるのだろう?
まさか山岡荘八が間違えることは無いと思うし・・・・

という疑問が 常に頭の隅にあり、三年が経過しました。

<疑問解決の足がかり>
三年後の今年の10月2日、勝沼市へぶどう狩りに行った帰り道、「ぶどう寺」の謂れがある行基開創の「大善寺」に立ち寄りました。国宝薬師堂に入ると厨子三尊の両脇に十二神将が並んでいるではありませんか!
チャンスと思い住職に例の「徳川家康」の疑問を投げかけたところ、
「十二神将と干支守り本尊の関係はその寺の経典で決まっています」との回答でした。
 根が単純な私は早速自宅に帰り、今までの経過をブログに掲載しました。


<新たな情報>
ブログをみた、前出あさみさんから早速メールをいただきました。
十二神将と干支守り本尊の関係はいろいろな情報を頂きましたが、最終的に

「日本のお寺における十二神将と十二支の関係については、
各お寺の経典・言い伝え由来ではなくて、 十二神将と十二支の関係について書かれた書物によるものです。」

とのことでした。

<チャンと調べよう>
そこでもう少し専門的に調査し直そうと、図書館の書士さんにお願いして関連書物を検索・取り出していただき調べました。



1)先ず十二神将と十二支の現状と歴史について
     ・・「謎を秘めた仏たち」より抜粋・・
<現状>
 ①十二神将を安置する寺では、神将が頭に十二支の動物を頂くことから、人々の生れた歳の干支と十二神将を結びつけて、十二神将をそのまま人の生れ歳の守り本尊として説明している。
一般に十二神将は前述<そもそもの疑問・・・・>に記述したように呼んでいるが、
図像・彫刻の上でもその尊名と形姿が一致することがほとんどなく、混乱を招いている。

②十二神将は、薬師如来の本願を守護する12人の薬叉神将で、彫刻の上でも製作されているが、その姿・形・持ち物などが各々異なり、尊名の確定が非常に難しい。

③この混乱は、依経する「薬師経」が尊名だけを記し、姿、形を説明しないことによる。
これは平安時代後半になって、神将の頭上に十二支を頂くことからも一定せず、十二神将の尊名を一層分かりにくいものとしている。

④因みに奈良・新薬師寺、京都・広隆寺十二神将像の彫刻は、十二支をつけていない。頭上に十二支を頂く古い例は、平安時代後期の製作と見られる淡路島東山寺像である。

<歴史>
①わが国で十二神将を説明した、最も古いと考えられる経典は、平安時代中頃に伝来したという、天台系の「浄瑠璃浄土標」であるが、これには寅から丑まで、十二獣に跨る武装の十二神将を説明しており、その像容は彫刻上の十二神将と大きく異なっている。

②また十二神将は、彫刻や絵画の上では、武将の姿が普通である。
しかし鎌倉時代の有名な図像集である「覚禅抄」は、平服を纏った獣頭人身の立像を描いており、これは本来十二支神将と呼ぶべきであろう。

十二支と仏教上の十二の獣の結付きとをうかがわせる仏教経典に、五世紀の中国北涼時代に曇無讖(どんむしん)が訳した「大方等大集経」がある。
この中には仏教上の十二支獣も、十二支と同様に東西南北に配置されるが、これは中国に伝来した経典が、陰陽道の十二支を取入れつつ完成したのではないかと考える。

④そして十二支と十二支獣が結び付き、形となって彫刻化され、これが一つの思想にまで高められたのが、韓国新羅(4~9世紀)の頃ではなかろうか。

韓国慶州地方に仏教と十二支獣の関係がより明確になった。

⑤こうした思想が日本に伝わり、早くから伝来していた現世利益の仏である薬師如来と結びつき、平安時代の中期以降には、陰陽の思想とも結びつきを深め、頭上に十二支を頂く十二神将が生れる一因となったと考えられる。

2)経典との関係
①②の最初につまずいた資料
③以降は刈谷中央図書館へ行って書士の方に協力を頂いた文献とネット資料を対比。

①「徳川家康」山岡荘八著(講談社)
・鳳来寺 高野山真言宗
十二支の順は亥、戌、酉の

②十二神将像(仏像事典)
http://www.butsuzou.com/jiten/12sinsyo.html
・経典「薬師瑠璃光如来本願功徳経」
・十二神将子、丑、寅の順


③仏像図鑑 上 国書刊行会 国訳秘密儀軌編纂局
種種の仏像について写真・図・解説を詳細に書かれている。
十二神将については、薬師本願功徳経に書いてある薬師如来の本誓(ほんぜい)である守護神の成立(じょうりゅう)、すなわち8万4千の煩悩を転じて菩提を得しむる。
・十二神将の名称は出典により異なり、陀羅尼集経、妙見菩薩神呪経、薬師観行儀軌の3経について十二支、本地と対比表を載せてある。
・十二支の順は亥、戌、酉の順  

④奈良・新薬師寺・・・写真集
・新薬師寺の建物・仏像の写真
子、丑、寅の順

⑤謎を秘めた仏たち 川尻祐治 戒長寺 十二神将が護る寺
          http://www.bunkaken.net/index.files/nazo06.html
・前項に十二神将と十二支の関係の現状・歴史を抜粋記載。  
・一般例として・・子、丑、寅の順

⑥十二神将 http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/12shinsyou.html
・「覚禅抄」に書かれている、「一行阿闍梨詮集」の説
十二支の順は亥、戌、酉の

⑦総合佛教大辞典下 法蔵館 総合佛教大辞典編集委員会


⑧仏教美術事典 中村元、久野健監修 東京書籍㈱
・「薬師経」の十二神将名称を例示し、一般に姿形や持物、十二支との対比関係には諸例みられる。

⑨yahoo智慧袋「十二神将はなぜお寺によって違うのでしょうか?」
まず一番に単純明快な解説はyahoo智慧袋「十二神将はなぜお寺によって違うのでしょうか?」
のベストアンサーより
・もともと十干十二支と言うのは、中国の陰陽五行説を元に、日本の「陰陽道」が制定したものです。
「卯」生まれというのも、「陰陽道」の思想です。仏教とは関係ありません。
一方、「薬師如来十二神将」は、仏教の教えによるものです。
そもそも思想基盤が違うのです。
ところが、「陰陽道」の「式盤(ちょうばん)」に表される、十二方位の神「十二天」と「薬師如来十二神将」が混同してしまい、当の新薬師寺でも、十二神将の名前に混乱が起きていました。

この混乱は、依経する「薬師経」が尊名だけを記し、姿・形・を説明しないことにもよる。
これは平安時代後半になって、神将の頭上に十二支を頂く形となってからも一定せず、十二神将の尊名を一層分かりにくいもととしている。
・・・(中略)
わが国で十二神将を説明した、最も古いと考えられる経典は、平安時代中頃に伝来したという、天台系の「浄瑠璃浄土標」であるが、これは寅から丑まで、十二支獣に跨る武装の十二神将を説明しており、その像容は彫刻上の十二神将とは大きく異なっている。
また十二神将は、彫刻や絵画の上では、武将の姿が普通である。しかし鎌倉時代の有名な図像集である「覚禅抄」は、平服を纏った獣頭人身の立像を描いており、これは本来十二支神と言うべきであろう。
  ・・・(後略)


参考までに
「覚禅抄」について・・・・・④仏教美術事典より
真言宗小野流の京都・勧修寺出身の覚禅によって編集された密教図像集。
諸 経法・諸尊法から灌頂・後七日など修法について約120巻にわたって、次第と図像を、儀軌・経軌・古記録・口伝とともに集大成されており「百巻抄」とも言 う。基本的には勧修寺の密教図像を継承しているが、勧修寺・醍醐寺の小野流に限らず、京都・仁和寺の広沢流にも通じ、時には天台宗の次第・口伝も記されて いる。
わが国最大の仏教図像の百科全書として現在に至る。


以上のように
かなりの労力を使って情報収集したが、解決には至らなかった。




 出典:「十二神将像(仏像事典)」 http://www.butsuzou.com/jiten/12sinsyo.html
元々は 十二神将はそれぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率いて薬師如来を信仰するものを守る武神。
経典:「薬師瑠璃光如来本願功徳経」に薬師如来の名号を唱える者を守護すると約束されている。
因みに経典の種類は訳者により四種類ある。
「薬師瑠璃光如来本願功徳経」 唐の玄奘訳
「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」 唐の義浄訳
「潅頂経薬師瑠璃光経」大正蔵
「薬師如来本願功徳経」大正蔵

・2010.10.2山梨県勝沼へぶどう狩りに行き、帰路「大善寺」の薬師堂で上記疑問を住職に尋ねたところ、「それは経典により異なる」と教えてくれた。
これですっきりしたので自信を持って自分のブログに載せました。


ところが読者の方から 
「日本のお寺における十二神将と十二支の関係については、各お寺の言い伝えによるのではなくて、 十二神将と十二支の関係について書かれた書物によるものです』
経典由来ではなく経典から考えられた副教材みたいなものが存在し「十二神将と十二支の関係」が色々書かれているのでしょうね。」
とのコメントを頂いた。上記の「副読本みたいなもの」とは、多分「覚禅抄」(抄の字は正式には金偏ですが変換文字が無いので手偏を使用)をさすのではないでしょうか?

従って経典由来説(大善寺の住職)と「覚禅抄」由来説  どちらが正しいのでしょうか?


やはり、勝沼市の「大善寺」の住職説である 経典説を信じたくなってきた。
 ・・この経典由来説は上記文献について比較検討(エクセルで対比表を作成したがここにアップする術がわからず)した結果どうも誤りのようです。
ただ「覚禅抄」においてこの記述が発見できればいいのだが・・・・

1 件のコメント:

  1. 十二神将と十二支が明確に書かれた書物をお探しなのでしょうか?
    もしそうならば、経典にはそれについて書かれていないことをお伝えしておきます。
    参考までに川崎市の文化財についてのHPをどうぞ
    http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/zukan/z0219.htm#

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