2011年12月30日金曜日

後醍醐天皇の「後」 その2

先日 このブログで 天皇の諡号(しごう) 特に「後」のつく天皇の名前について書きました。
しかし 何か書き足りないところがあるような、間違っていたところがあるような、常に気になっていました。そんな折、ふと本棚を覗いていたら『歴史読本』特集天皇家125代 皇位継承の真相 を発見。
その中に 天皇の名前はどのように決まるのか? の記事があり、その内容を箇条書きに列記します。
1、天皇は、諱(実名)と諡号(贈り名)をもつ。
例えば桓武天皇の桓武はその徳を称えて死後におくられる諡号、本名(諱)は山部(やまべ)。

2、諱は「仁」がつくことが多い。
明治天皇は睦仁(むつひと)、大正天皇は嘉仁(よしひと)、昭和天皇は裕仁(ひろひと)。
皆 仁 がつく。これは近代に入って皇子名に「仁」を用いることを定めた法律に従っている。

3、諡号は原則として、天皇の崩御後に贈られるが、これは生前の御座所をつける慣例があり、平安初期に法令化されている。

4、諡号に「後」を冠する方は26名いる。
父子関係や御座所が同じ場合に「後」をつけた。
ところが 深草天皇はいないのに後深草天皇はいる。
これは仁明天皇が深草を異名としたことによる。
同様な例は 後小松、後水尾など数例ある。

参考までに 後醍醐天皇は醍醐天皇の治世を思慕するあまり、生前に自ら諡号をつけた珍しい天皇です。

2011年12月29日木曜日

石田梅岩ー二宮尊徳ー万象具徳

先日 喫茶店でコーヒーを飲みながら週刊誌を見ていたところ、消費税に携わった首相2名の記事が紹介されていました。消費税法案を成立させた「竹下登」、現在消費税増税にまい進している「野田佳彦」両首相。

両者の所信表明で奇しくも江戸時代の学者の言葉を引用していました。
竹下首相は心学の開祖:石田梅岩の
「若し聞く人なくば、たとひ辻立ちして成とも、吾が志を述べん」
(資料により表現が異なりますが、週刊誌に載っていた分を引用しました)。

一方 野田首相は儒教学者:
佐藤一斎「春風を以て人に接し、秋霜を以て自らを粛む」。
私は特に石田梅岩は数年前に堺屋太一著『日本を創った12人』で初めて知った人物でした。
もう一度その本を読んでみようと思い本箱を探しましたが、見つからなかったのでネット検索することに。
ところがそこで意外なことを知りました。
実は石田梅岩の思想に二宮尊徳が影響を受け、その尊徳の考え方を、報徳博物館の佐々井典比古理事長は次のような詩で記されています。

「万象具徳」 二宮尊徳先生の教え

どんなものにも よさがある
どんなひとにも よさがある
よさがそれぞれ みなちがう
よさがいっぱい かくれてる
どこかとりえが あるものだ
もののとりえを ひきだそう
ひとのとりえを そだてよう
じぶんのとりえを ささげよう
とりえとりえが むすばれて
このよは たのしい ふえせかい

一円融合会理事長 佐々井典比古 作


このすべてひらがなになっているのが味わいがある。

2011年12月26日月曜日

小笠原家の家紋は三階菱

小笠原家は代々弓の名手として知られた家系です。
歴代の中でも七代の貞宗は足利尊氏に弓法を教えました。
また八代の政長葉は足利尊氏・義詮(よしあきら)父子の師範を勤めました。
中でも貞宗は後醍醐天皇に仕えていて、弓馬の秘奥を御覧に入れる機会がありました。
天皇は貞宗の馬術と弓術を御覧になられて、その妙技に感動され、「小笠原流は日本武士の弓馬の技を定めた作法にするがよい」と申され、貞宗は正三位の位を戴きました。
その上、王の一字を家紋にするように仰せられました。
しかし 貞宗は王の字をそのまま家紋にするには あまりにも恐れ多いということで、
下太の三階菱に改めました。それまでは中太の松皮菱を用いていました。
三階菱
松皮菱
本稿は久保田安正著「小笠原屋敷ものがたり」の抜粋して記述します。

2011年12月24日土曜日

「ミツガシワ」と「三つ柏」

先日(2012年12月23日)仲間と春日井植物園に行った際、
案内人のFさんから小さな池に案内され、
ここには絶滅危惧種の「ミツガシワ」があると紹介されました。
花はすでになく、葉も刈り取られている状態で、本来の姿が分らないので、
ネットから写真を拝借しました。
そばにいたKさんが「私の生家の家紋は「ミツガシワ」でした」と。

ミツガシワ
三つ柏

おいおい、家紋の「三つ柏」の「カシワ」はカシ)で、ブナ科コナラ属の常緑高木の一群の総称に決まっとる。
しかし 池に咲く「ミツガシワ」果して、柏紋と関係あり哉否や!
私は過去に 早く決めつけて失敗したことがあるので、今回は慎重に調べることにしました。

柏紋の項が長文になるので結論から話しますと、やはり「ミツガシワ」と「三つ柏」は無関係でした。

まずは柏紋について『日本家紋総覧』(千鹿野茂著)から引用すると
<成り立ち>
古代では柏の葉にご馳走を盛って神に捧げていた。
柏が「神聖な木」と見られた。
柏手を打つとは神意を呼び覚ますことをいう。
柏は神社や神家と切っても切れない縁があるようだ。
柏紋を最初に使ったのは、神社に仕えた神官だったようだ。
公家でも神道を司った卜部氏が用いた。
現在、柏を神紋としている神社は各県に一社はあるという。
<かたち>
普通「葉」を模様化、「実」、「枝」もある。
葉の数は一葉から九葉、
形は「対い柏」、「抱き柏」、最も多いのは「三つ柏」
<使用家>
公家:清和源氏では、今井氏・神尾氏・井上氏。
藤原氏では中御門氏・荻原氏・藤井氏・高橋氏・加納氏。
桓武平氏では長田氏など。
ほかに大江流の境野氏が「上り藤内に三つ柏」。
江戸大名では山内氏・蜂須賀氏・中川氏・牧野氏で、代表的なのは、土佐山内氏と譜代の牧野氏である。
牧野=槙野、槇=神聖な木=柏。
神官では、伊勢の久志本氏は皇大神宮に奉仕し、尾張の千秋氏は熱田大宮司として奉仕した。
筑前の宗像氏、吉野神社の卜部氏等神官に柏紋が多い。備前吉備津神社宮司の大守氏は「庵に柏」という珍しい紋。

参考までに 私が自分で収集した家紋集である『≪実録≫全国墓石家紋巡り』から
代表的なものを列記します。
1枚葉 「八角に一枚柏」名古屋市平和公園 門田家
2枚葉 「丸に抱き柏」岡崎市大樹寺 西山家
3枚葉 「丸に3つ柏」刈谷市十念寺の寺紋、飯田市運松寺 牧野家
「丸に剣3つ柏」碧南市称名寺 金原家
5枚葉 「5つ樫の葉」刈谷市教栄寺 太田家
亀甲  「反り亀甲に蔓3つ柏」刈谷市昌福寺 角岡家

次に「ミツカシワ」 ウィキペディアより抜粋
ミツガシワ(三槲)はミツガシワ科ミツガシワ属の一属一種の多年草。
日本を含め北半球の主として寒冷地に分布し、湿地や浅い水中に生える。
・・・・・この点は「ミカワバイケイソウ」によく似ている。・・・・・
地下茎を横に伸ばして広がる。葉は複葉で3小葉からなる。
4-5月に白い花を総状花序に多数つける。
亜寒帯や高山に多いが、京都市の深泥池や東京都練馬区の三宝寺池など暖帯の一部にも孤立的に自生している。
これらは氷河期の生き残り(残存植物)と考えられ、これらを含む水生植物群落は天然記念物に指定されている。北海道岩内郡共和町の町の花。
睡菜(スイサイ)と称し苦味健胃薬として用いる。
他の文献からも、家紋と関係するような記事は見当たらなかった。

以上より、前述の通り「ミツガシワ」と「3つ柏」は無関係であると結論つけたいと考えます。
これってホントに無駄な検証だったような気がします。

2011年12月21日水曜日

後醍醐天皇の「後」

以前 後醍醐天皇の第4皇子「宗良親王」について、下条村の郷土史研究家の方から話を聞き、
また史学会に同行させていただき、宗良親王の縁の地に訪れたりしたことがありました。
その関係で後醍醐天皇には興味を持っていましたが、最近になって少し疑問を感じるようになったことが発生しました。
それは、後醍醐天皇と醍醐天皇はどんな関係があるのか?という疑問です。

一般的に歴代の天皇の名前は「後」がつくのは先の天皇の皇子の場合に付けると思っていました。ところが 醍醐天皇は60代で西暦900年頃の即位、それに対して後醍醐天皇は96代で西暦1300年頃の即位。実に400年も隔たりがあり、親子関係のはずがありません。
早速ネットで調べてみました。
すると 後醍醐天皇は、醍醐天皇を尊敬しており、醍醐天皇のような政治がしたいと思っていたみたいです。
すなわち「延喜の治」と称され天皇親政の治世を理想としていたということ。

天皇の諡号(いごう)や追号は、通常死後におくられるものだそうですが、
醍醐天皇にあやかって、生前自ら 後醍醐の号を定めていたということがわかりました。
これを「遣諡(いい)」というそうです。
このような例は 72代白河天皇以降(院政)しばしば見られる。父子の関係ではない。
・72代白河ー77代後白河
・73代堀川ー86代後堀川
・74代鳥羽ー82代後鳥羽
・78代二条ー94代後二条
・90代亀山ー99代後亀山