2012年2月4日土曜日

佐竹氏の家紋

常陸太田市の文化財関連の資料を入手して眺めていたところ、
佐竹氏関連の史跡が何か所あった。
佐竹寺(佐竹氏の祈願寺)、正宗寺(佐竹氏の菩提寺)、佐竹小学校等。
そこで佐竹氏の家紋とその歴史を追ってみることにした。
   複数の書籍とネットを参考にさせて頂きました。

<概要>
佐竹氏は源頼朝と同じ清和源氏で、武田家と同祖新羅三郎義光からきている。
昌義の代 母が大掾家の出であった関係で、常陸へ移り来て、
久慈川水域の佐竹郷に住んで佐竹氏となり、一族一門はながく北関東・東北地方に勢力を張っていたが、義宣が関ヶ原役で西軍について、出羽秋田に国替え、25万石に減俸。
その後徳川氏に属して勢力を回復し、明治に至る。
支流は三河、美濃、和泉、甲斐、土佐、阿波、九州にも広まり、本邦豪族中最も名門の一つといわれる。

<家紋の歴史>
それでは佐竹家がどのような歴史をたどったか?
また家紋はどのように推移していったか述べる。

初代 秀義
源頼朝が奥州藤原氏討伐(文治5年1189)に向かった際、宇都宮まで馳せ参じ参戦した。
頼朝は秀義の参戦に対して大いに喜んだが、一つ気に触ることがあった。それは家紋が頼朝と同じ*「無紋の白旗」であったこと。
頼朝は持っていた扇を与え「これを目印にせよ」。
そこで佐竹は「扇に月丸」を家紋として後代まで伝わったとの事。
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無紋の白旗
扇に月丸
     

*源頼朝が「無紋の白旗」を最高位の旗であるとしたことが「源平盛衰記」や「太平記」「吾妻鏡」に あるそうです。「軍法侍用集」にも、「将軍家には白布を本とするなり。然れども無紋の白旗、 将軍のほかこれを用うる事なかるべし」とあるそうです。

<主な宗氏と出来事>
貞義ー南北朝時代、足利尊氏について関東きっての有力家に伸ばした。
 その後佐竹の勢力はひどく衰えたが、

 義舜から義重までの4代ー戦国時代 中興の祖常陸全域から下野、陸奥にまで張り出す一大領国を形成。

義重ー秀吉の天下統一軍が関東に進んだ時、義重とその子 義宣は陣門に伺候して秀義の取り込むことに成功。54万5千石が義宣に安堵された。
その後水戸城を本拠地とする。

その後関ヶ原の戦後、家康から会津上杉景勝と通じたことなどから、20万5千石に切り下げられ出羽の秋田へ左遷国替えとなる。
しかし以後辺地の大名でありながら、子孫営々と励んで、名家の誇りを持ち続けた。
そして明治維新の際東北諸侯が徳川家支持の列藩同盟を結んだ中にも、ひとり官軍としての姿勢を崩さなかった。

<替紋>

佐竹桐「中陰五七鬼桐」
源氏香「花散里」

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