2021年2月16日火曜日

壬生氏の家紋

数年間休眠中のブログを書く気になりました。
きっかけは とある高名な方よりどうも長野県下伊那郡豊丘村というところに数軒の壬生姓があるらしい。「壬生氏の家紋」について問い合わせがあったからである。

しかしこれからだらだらとつまらない話が続くので興味のない方は早々に退出されるのが賢明ですよ。
まずは「壬生」という姓について
早速「名字由来net」で検索してみると4603位、およそ2400人とある。
 そこには矢張 「前述の豊丘村に集中して多い」との記述あり。


幸い吾輩は20年ほ前から月に2,3回飯田市に通っている関係で、豊丘村には何度か豊丘村はマツタケで超有名で秋になると「堀越まつたけ観光」に行ったことはある。

 さて本題の家紋調査には寺院・霊園の墓地へ行って墓標の家紋をデジカメで撮影採取するわけですが、どこへ行ったらよいか?
初日は諏訪方面からの帰り道夕暮れ近かったので、google map検索で最初に出た「洞岩寺」の墓地へ。しかし「壬生家」には巡り合えず。その代わり「知久頼康公の墓」という標識を見つける。



「知久氏」というので興奮し、後から調べたところ、この地は武田信玄との激戦地にほど近く、頼康は神之峯城主知久頼元の長子であった。


一週間後、再チャレンジ 今度は地名から調査地を絞ろう!(少し頭がよくなった?)
まず【壬生沢】という地籍がある、壬生川という川もある。
その近くのお寺を探したら慈恩院があった。
これは結果的に大当たりでした!最初に壬生家「丸に三つ扇」、次に「三つ扇」、中盤に「石持ち地抜き三つ扇」


説明を追加

秋の七草と家紋 ⑦朝顔(実は桔梗)

秋の七草⑦朝顔(実は桔梗)

植物としてのアサガオ(実は桔梗)

キキョウ科

和名:キキ

古名:オカトトキ

別名:阿利乃比布岐

漢名:桔梗

方言:ボンバナ

『万葉集』5首
・ 朝顔は、朝露(あさつゆ)負(お)ひて、咲くといへど、夕影にこそ、咲きまさりけり
(意味)朝顔は朝露(あさつゆ)を浴びて咲くといいますが、夕方の薄暗い光の中でこそ輝いて見えるのですよ。
この歌で、夕方の方がきれい、と詠まれているので、キキョウだと思われます。

家紋(桔梗)について

清和源氏頼光流の土岐一族の代表紋、明智光秀の水色桔梗が有名
日光東照宮鐘楼と陽明門像の桔梗紋は誰の紋?
①江戸城を初めて完成した太田道灌?
②日光東照宮の立役者、天海の出自は光秀と同じ土岐。
 天海の父は土岐氏の庶流舟木氏














土岐水桔梗           桔梗
明智氏         知久氏、脇坂氏







      五瓜に桔梗
     使用家:舟木氏(南光坊天海)














    




2015年7月7日火曜日

朝倉氏の末裔・・家臣の悲壮な思いが子孫を守る

滅亡した越前の名族の末裔が
越後越前浜に生き続け、その霊が子孫を守る・・・

歴史家:山下克典と山下卯三郎2代による調査結果を詩にまとめたもの
 『歴史と旅』増刊号 秋田書店 平成3年 より抜粋

「越前浜の歴史」・・

一)織田の火攻めに、城落ちて
主君の義景、果てたあと
命に代えて、与三左衛門
愛王丸の、ともをする

二)百姓姿に、身をやつし
   小舟に主従、二十八
    涙も頬に、三里浜
     落ちゆく月の、能登の海

三)世が世であれば、若君と
裃姿で、仕えるに 
  越後の国の、蒲原で
   鍬を持つ手の、男哭き

四)くにに残せし、菩提寺を
憶うて建てる、西遊寺
  御堂の甍、風強く
   再起の悲願、道遠し

五)一乗谷の、城偲び
萬感胸に、植えた松
  一本松と、人は呼ぶ
  四〇〇年の、武者の夢


2015年3月12日木曜日

都道府県の県章

先日の愛知県高校入試問題をきっかけに「県章」について簡単にまとめてみました。

都道府県章のデザインにはその風土・歴史・文化などが象徴的に表現されている。
それらを分類すると

1、都道府県名にある文字(読み仮名ないし漢字、アルファベット)の一部もしくは全てをデザインに採用したもの

2、地形を抽象化したデザインしたもの

3、県の代表的な産物やイメージ(県花、県木等)を抽象化したデザイン

等に分類される。

まず
1、名称をデザインしたもの


愛知県

「あいち」文字図案化し、
「旭日波頭」を表す












 岩手県

岩の字

岐阜県

「岐」の字











長崎県

NAGASAKIの「N」と
平和の象徴ハトをデフォルメ










宮崎県

日向の「日」を中心に、
「向」を三方に躍進






2、地形を抽象化 





青森県

地図形状・・1目で分かります。








静岡県

富士山と静岡県の地形
これも一目瞭然!
  







石川県

「石川」を能登半島の形状に









鹿児島県

地形を図案化中の赤は桜島













3、県産物をデザイン





茨城県

イバラをモチーフに
バラの蕾を象徴化













愛媛県

赤色は太陽とみかん、
緑色は石槌山など自然の恵み
青色は瀬戸内海











4、その他 ユニークなもの
京都府:古都の格調高い六葉形、中は「京」を人形の模様に





山形県:周囲は富士山と武田菱、中は三つの人で山梨の山






























2015年3月7日土曜日

刈谷市 史跡めぐり 野田コース

本日3月7日 史跡めぐり「野田コース」に参加しました。
刈谷市教育委員会企画、ボランティアガイドの案内で実施。
所用時間:約3時間、距離:約3.5キロ 説明ポイント15か所でした。

集合場所は八枚公園、駐車場は隣の津田工業の駐車場。
公園で受付、私は第二組17名、ガイド4名 で出発。

①宮城道雄供養塔

  なぜここに「春の海」を作曲した箏曲家宮城道雄の供養塔があるんだろう?

  箏曲家として有名な宮城道雄は関西での演奏旅行の爲、夜行列車「銀河」に乗ってたところ、 昭和31年6月、この付近で列車から転落して死亡。
刈谷市、宮城海、日本盲人会の3者によって転落現場近くに建てられたそうです。

③佐次兵衛井戸
弘法大師が通りかかり、水に困っていた農民のために、杖でつつくと「玉のような水」が湧き出たそうです。




④福島領の碑、重原陣屋跡


財政難の刈谷藩で不祥事(寛政の一揆)がおこり、一方、福島藩も赤字ながら大阪城警備のため50名もの藩士を出しでいたが困窮を極め幕府に村替え願いを出していた。
そこで幕府は、刈谷藩と福島藩の村替えの処分を下した。
これにより、2万3千石の刈谷藩は1万石となり、福島領に1万3千石の飛び地。
同じ1万3千石でも福島は石高は悪く、刈谷藩の財政はさらに厳しくなっていった。

⑥浄福寺

このお寺には福島藩士の墓が8基あった。

また、近くに住む野村伴右衛門と言う商人は福島領に建てる重原陣屋の土地の提供と
このお寺建立の資金を出した。
右の写真は、改修時に降ろしたお寺の鬼瓦で、野村伴右衛門の家紋である「笹竜胆」の紋が彫られていた。

⑩中条遺跡
最初 中条貝塚と呼ばれていたが、発掘が進むにつれて
縄文土器、瓦、勾玉、景徳鎮等がでてきた。また大きな遺構も発掘され、縄文時代から鎌倉時代までこの地域の中核都市であったとすいそくされるようになった。

⑫伊勢倉組の常夜灯
このように呼ばれているが、伊勢倉と言う地名が書かれた文献は残っていないそうです。
しかし「伊勢倉」の地名は東海各地にあるそうで、伊勢神宮に奉納するお米を蓄える倉であって
この地からすぐそばの川から船に積み伊勢神宮まで運ばれたであろうという事は十分想像できる。

この後
⑬慕井戸

⑭重原八幡社



定刻に解散場所に到着し、ガイド班長さんのあいさつで解散となった。

2015年3月3日火曜日

笠寺観音

3月2日(月)寒風吹くなか、以前から気になっていた笠寺観音にお参りしてきました。

23号線は意外と流れは良く40分弱で到着できました。

駐車場の関係で西門から入ると、


 正面に真っ赤ゲートが目に飛び込んできました。金色の笠紋(寺紋)が引き立っていました。

入口右手には風格のある二重の塔、その前にそんなに古くない石碑が目に止まりました。

近づいてみると、織田木瓜と丸に三つ葵の下に「人質交換の地」とある。

かの有名な織田信広と竹千代(後の徳川家康)の人質交換はこの地であったのか!

ここを少し進んで左手の本堂にお参りしました。
本堂

玉照姫堂

ずぶ濡れの観音様に自分の笠をかぶせる
長者にこき使われていた女(後の玉照姫)

と後日鳴海に立寄った都の貴族中将藤原兼平公は、
この心優しき娘を見初め妻とした。

南正門

笠寺観音の由緒

1、開基は善光上人
  観音像を彫り、寺を建立する。
  天林山 小松寺

2、『笠寺』の名の始まり
 前述の玉照姫と藤原兼平夫妻は現在の地に荒廃した寺を復興し、

 寺の名前を小松寺から笠覆寺(りゅうふくじ)と改めました。

  これが「笠寺」の地名の起こりとなった。



2014年10月30日木曜日

地名の謂れ 愛知県東海市

過日 知人に教えて頂いた土地の住宅地図を眺めていたところ、気になる地名が一杯!

早速 図書館へ行って、その土地の旧町名の町誌『横須賀町誌』を調べ、抜粋しました。
世の中には知らないことが、いっぱいあるものだ。

<気になった地名>
「八王子」、「東海市養父」、「正神」、「横枕」、「城の内」、「一の割」、「蜘田」などについて以下に転記しました。

「八王子」
:昔八王子権現をこの土地に勧請、社寺を建立したものでこの名が起きたと思う。
 古書に「八王子」とは、素戔嗚尊の5男3女を合せ祀る神の称で、
 東京都の八王子も天正(織田・豊臣の時代)のころ、由井済三(氏照)なる人、
 ここに城郭を移し、八王子権現を鎮守とし、ついに地名になった。

「東海市養父」
:知多半島基部、伊勢湾に面する海岸平地に位置する。
 地名の由来は、「地名考」には「往昔薬王山法海寺の外郊に本付けて養父というべし。
 支村荒井は新居の義なり。」とある。
 古くは「藪」と書いたが、明治15年の知多郡長坂重孝による「分村許可証」に、
 藪の字が養父と朱記で訂正されており、以後養父と書かれるようになった。(横須賀町史)

「正神」
:実は、正式には「正榊」で、どうも住宅地図の印刷間違いだと思います。
養父新田内の地名。養父新田は旧幕府時代大高町の山口源兵衛が所有していた     が、明治元年に藪村の森彦治が買い、明治4年に又々横須賀の野畑〇〇の手に移った。
最終的に亀崎村の榊原義正に売却した。この時土地丈量があり、自分の名をつけた。

「横枕」
:柳田國男は「横枕は成功開墾の地割をするにあたり、地形の都合上幹線に平行に割る事が出来ぬ分、即ち大部分の田地の上端に、横に長い形の出来たものをいう。
田畑の大部分は山や林の影を考えて大体どの田にも、日受けの良いように縄を引くから、
横枕は多くは日射の十分でない、若干不利益な地面に相違ない。
それで特にこの地名が出来たのであろう」と書いている。

「城の内」
:大字養父の中心地で北城郭のあったところ

「一の割」~「四の割」
:地租改正の際、大字横須賀を四等分して名付けた。
最も安易な味気ない地名。

「蜘田」
:大宝の制、諸国から毎年中央政府に出す大径帳。
公文給、公文田、蜘田





2014年1月7日火曜日

瓶子紋

「瓶子紋」と使用家(苗字)の関係調査

調査文献
A:『日本家紋総監』千鹿野茂編
B:『苗字から引く家紋の事典』高澤等著
C:『都道府県別姓氏家紋大事典』
D:『難読稀姓事典』高橋幸男編

<はじめに>
家紋仲間で「瓶子紋」の情報交換していたところ、使用家に地域差がありそうなので、上記文献で調査した。

1、まずA(『日本家紋総監』)の瓶子紋記載数。(ただし陶、徳利は除く)
  家紋の種類は65件あり、述べ使用家数は74家あった。

2、苗字別(一部Gグループ)に多いものを列挙すると下記の通りであった。
  ①宇佐美:単独で6件
  ②二瓶、三瓶、仁平G:総数11件、平均3.7件
  ③富永:4件
  ④鈴木:4件
  ⑤川越・大越G:総数6件、平均3件
  ⑥宮の字G(宮永、宮守、宮島、大宮):総数8件、平均2件
     ⑦広瀬3件、
  ⑧大岩2件
  1件は以下の通り
     金沢、広居、中村、小野、三輪、饗部、関、安食、塙、頼、梅野、平野、長野、
     津留崎、緑川、行元、下沢、秩父、土橋、飯田、塩田、箱田、宇井、新、
       照井、仁木、三上、平野、境野、三浦



  
   
 
3、私の調査では(東海地方が中心)宇佐美姓、酒向姓が大半を占めていたが、
   Aには酒向・酒匂姓とも記載なしであった。

4、そこで、Bで酒向・酒匂を調べたが、記載なし。
     Dで読みを調べる。
     酒向(さかわ、さこう)
     酒匂(さかえ、さかむき、さかわ、さこう)

     
5、上記”読み”について、Cを調べたが,瓶子紋の使用例はなかった。
      酒匂(さこう)だけ2件で、酒向はなし。
      東京都 「三つ藤」藤原氏族
      鹿児島県「丸に蔦」桓平梶原氏族

<以上より>
    ①文献に頼るだけでなく、家紋仲間で調査結果を情報交換して集約する以外に方法はないとの結論に達した。
    ②各文献は独自の調査範囲・編集方針があると思われるので、当方の希望通りの記載内容を希望するのは所詮無理な要求である。

   

    

2013年8月14日水曜日

阿島知久氏の史跡を訪ねて

先回(6月30日) 
知久氏が尹良親王から下賜されたといわれる「7本骨御所車」の指物旗を見るため、喬木村歴史民俗博物館へ行きました。

その後、知久氏の廟所にお参りするため、菩提寺である渕静寺に行き住職にお尋ねしたところ、「ここは菩提寺で知久家歴代の位牌などであるけれど、お墓は別のお寺(安養寺)です。」

この日は時間がなく帰路に就く。

今回(8月12日)は知久氏の廟所目指してまっしぐら・・・
ところが道を間違え、道路際の墓地でお盆前のお墓掃除をされている方に道を聞く。
ふとお墓を見ると「鞍馬家」家紋は「毘沙門亀甲」。


道路工事中で車がやっと通れる道を進むと、突き当りが安養寺の駐車場でした。
その正面に毘沙門堂。
賽銭箱の正面には「毘沙門亀甲紋」。



お堂に拝礼していると、小学低学年の女の子が近づいてきて、
「何してるの」、龍の彫刻を見ていると「龍は本当にいるの?」、
隣の祠に注連縄が飾ってあったので「ここから内は神様がいるんだよ」と言うと、
「ホント!じゃー猫じゃらしで確かめてみる」・・・こんな会話をしばらく楽しんだ。
その女の子は「お父さんにお墓の掃除をさせているの。」との事。

女の子と別れてお寺を見回すと、室町時代のものと言われる梵鐘、その両側に杉と銀杏の大木。
山門を見てびっくり! 山号は『鞍馬山』。・・先ほど道を聞いた方と同じ!

もう一度引き返して、毘沙門堂の前を通り過ぎ、目的の知久氏廟所へ。



急な石段を数十メートル登る。道の両脇には家臣のものと思われる墓が並んでいました。

最上段の左右が、歴代知久氏と親族の墓が立ち並んでいました。




都との婚姻関係があったのだろうか、屋根付菊の紋の墓石も何基かあり、

在りし日の知久氏の繁栄を偲ぶ事が出来ました。



2013年8月10日土曜日

秋の七草と家紋 ⑤女郎花 ⑥藤袴

⑤女郎花 ⑥藤袴
どちらも、残念ながら家紋が見当たりません。

まず⑤女郎花
植物としてのオミナエシ  

オミナエシ科

原産地:中国

和名:オミナエシ

別名:女郎花

漢名:黄花龍芽

花言葉は
「親切」「美人」「はかない恋」
「永久」「忍耐」



 
名の由来

①細長い茎の頂に粟粒ほどの黄色の花の様・形 上臈花→女郎花 

②オミナメシ(女飯)→女郎花、

      一方 男飯→オトコエシ(白い飯は男が食べる)

・「女郎花」は黄色い花、
「男郎花(おとこえし)」は白い花。 

   形はそっくりだが女郎花より「力強く」見えるとのこと。      

・奈良時代に中国から渡来帰化


万葉集:14首


をみなへし 佐紀沢(さきさは)に生ふる はなかつみ

   かつても知らぬ恋もするかも

       作者: 中臣女郎(なかとみのいらつめ)


⑥藤袴
植物としての藤袴

キク科

和名:フジバカマ

別名:秋欄

漢名:欄草、香草

花言葉は
「ためらい」「遅延」「躊躇」
「あの日を思い出す」「優しい思い出」

 フジバカマはよく耳にするが、実は日本各地で見られなくなった絶滅危惧種。
葉を乾燥させるとクマリンが作用して、桜餅の葉の香りのような独特の香りが出るのためにおい袋にされた。


万葉集 1首のみ

・萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 をみなえし
   また藤袴(ふぢばかま) 朝顔の花
        作者:山上憶良

万葉集にただ1首だけなのに七草に選ばれた理由
  遣唐使として渡った憶良のハイカラ思想が選定の基準になった。

家紋
   見当たらない