事前調査のため午前十時に自宅出発。
知立バイパスで藤井インターを降りるとすぐ本證寺に到着。
車は近くのお店の駐車場をお借りしました。
山門 |
周囲の内堀、東の角に櫓、境内西側には鐘楼とまさしく城郭のような構え!
手前が内堀、右側が櫓、左が山門 |
本殿も威圧感がありました。
広い境内で、写真には写っていませんが右に前述の櫓、左に鐘楼。
山門から本殿を望む |
しばらく境内散策ののち、駐車場のお店に入りみかんを購入。
おかみさんに「立派なお寺ですねー」というと、
「内堀ばかりでなく外堀もあるよ」と教えて頂いたので周囲を歩いてみた。
橋の欄干の右側日陰の境に「そとぼり」の小さな石碑 |
「そとぼり」の石碑もあと何年残るでしょうか?
再度お店によって話したら、「内堀には夏になると蓮の花が咲くから見においで」と教えてもらう。
内堀の方はピンクの花、外堀の方は白い花が咲くそうです。
午後の安城歴史博物館での講座「藤井松平氏の出羽上山藩主時代」で
家康が頭を痛めた一向一揆は*三河三ヶ寺の一つである
この「本證寺」が主導的に一揆をおこしたことを知る。
講座終了後 帰宅して数年前読んだ 山岡荘八「徳川家康」を取り出しページをめくって新たなことを思い出した。
当時 家康は22歳で、岡崎城主として勢力拡大しつつあった。
永禄6年(1563)家康の兵糧米の徴発に端を発して一向一揆が勃発。
配下の家臣が本願寺派門徒であったため、多数の家臣と敵対することになった。
そこへ母であるお大(久松の妻でもあった)から、「もし一揆に加担したものを誅罰したら、事件は収まるが、松平の力は半減、そこが見えない敵の最も望むところ」、「真の御仏のおしえにしたがいなさい」の助言で一揆は好展開した。
ここに家康の精神面の成長を見るとともに、お大の方の影響力を再確認させられました。
現地を見た上で「徳川家康」を見直してみて数百年前をイメージしています。
*三河三ヶ寺(野本の本證寺、佐崎の上宮寺、針崎の勝鬘寺)
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