2011年1月8日土曜日

崇源院と徳川秀忠の位牌のなぞ

久しぶりに自宅に帰りテレビで「歴史秘話ヒスとリア」で「江」の秘話を知りました。
昨年2月長浜へ旅行して今年の大河ドラマとなることは知っていた。

この番組で始めて知った秘話は
京都東山の養源院というお寺にある位牌には「菊」「葵」「桐」の家紋があるということです。
この位牌は徳川秀忠と崇源院・江の2人のもの。

 ではなぜこのような3つの家紋がついた位牌ができたのかというのが今回のテーマです。
これを解くには2つの疑問を考察する必要があります。
①そもそも養源院は誰が何のために建てられたか?

②位牌の家紋の意味するところは?

まず①の問題について
養源院の創建された由来について

・ このお寺は豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要のとき(文禄3年・1594年)に創建されました。

・ 一度は焼失されたが、淀殿の妹で、徳川秀忠の夫人であったお江の方(後の崇源院)の願いにより、元和7年(1621年)に伏見城の遺構を移築して再興された。

・以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られている。
・・・従ってこのお寺は浅井長政・お市の3姉妹の内、長女”茶々”(後の淀殿)、3女”江”(後の崇源院)、及び秀忠と江の子”和子”・・・・・・へと
母お市・子の茶々・江そして孫の和子と3代に亘る女系の思いが込められているように思えてなりません。

次に②の位牌の家紋の意味するところは?

位牌には「菊」「葵」「桐」の3つの家紋が刻まれていることでした。
(TVでは見たのですが、ネットで探すことができず残念。)きっと、豊臣家と徳川家、徳川家と天皇家との関係の改善を願った東福門院(秀忠の子・和子が後水尾天皇に入内後の名称)の切なる気持ちが現れているのではないだろうか?


説明のため家紋の順序を「葵」「桐」「菊」と変えると説明しやすいです。
**実際の位牌には最上部に「菊」、中位に「葵」最下位に「桐」となっていたと思いますが、これは当時の格付けを意識したものではないかと個人的の考えています。


まず徳川秀忠と江は夫婦ですから徳川家の家紋「葵」。これは判りやすいですねー。


次に「桐」は豊臣秀吉の「太閤桐」
 最後に「菊」は天皇家の象徴であり、和子が後水尾天皇に入内し、徳川家と天皇家の関係が深いことをあらわすためと思われます。


歴史的に無知な個人的な意見を入れてありますので、もし間違いがありましたら、教えてください。

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