中日新聞の記事を見て幸田町の紫陽花で有名な本光寺へ出かけました。
深溝松平家の菩提寺である本光寺の文化財調査で、境内から旧本堂に伴う基壇状遺構や溝が見つかり、その説明会があるとのことでした。
私としては特別遺構自体に興味があったわけではなく、14松平氏とか18松平氏とかいわれている松平一族の菩提寺であったのでその関連で新しい情報があればと思い参加しました。
昼前に着いたのでちょっと下見のつもりで本光寺へ向う。
23号深溝口信号を左折して100mほどで到着。
駐車場傍に50基ほどの墓地発見!!
昨年夏で中断していた墓地参りによる家紋集めに火が付き早速カメラですべての家紋パシャリ。
・・実は 《実録》全国墓石家紋巡り の編集が大変なんですが・・・・
駐車場の後ろが一般氏子の墓地 その奥に本殿があります |
近くの中華料理屋でランチ780円ボリューム満点でした。
食後、説明会の受付で資料を受け取り説明会が開始されました。
始めに幸田町役所生涯学習課長より
今回の説明会の趣旨説明。
幸田町教育委員会では国史跡指定を目指す「本光寺文化財調査」を実施中です。
「今回実施した発掘調査の一環として、明治中ごろまで本光寺に存在していた本堂を含めた旧伽藍の確認を目的として実施したものです。
この度、発掘調査により旧伽藍が確認されたので現地説明会を開催することとなりました。」
左が学芸員の説明者 右の生涯学習課長 |
寛政3年寺領絵図に描かれている本光寺旧伽藍の確認。
絵図では、現在の紫陽花、梅園の場所で、事前に地中調査のため電気やレーダーによる探査を実施。その結果と絵図から発掘調査を実施。
その結果下図のように30cm掘った所が本堂の基壇と思われる段差が発見できました。
この位置はほぼ絵図と同じ位置だったそうです。
右が旧伽藍の基壇と思われる高まり |
深溝松平の歴史
蒲郡の五井松平が本家(始祖の忠景)。
忠景の二男 松平忠定(たださだ)が本家より深溝を与えられて、一家を起こした。
忠定は兄元心と共に三河国額田郡深溝城主大庭朝満を滅ぼし、松平宗家五代長親から深溝城を与えられる。
初代忠定以来深溝を領地としてきましたが、
二代好景 西尾の善明堤で討死。
三代伊忠 長篠の戦いで討死。
四代家忠の代に、家康の関東移封に伴い深溝を離れ関東に諸領地をもらいます。
武蔵国内で1万石を与えられて、忍城主になり、
さらに文禄元年(1592)2月に下総国上代、同3年1月に下総国小見川に移された。
家忠は関が原役の始まりとされる伏見城の攻防戦で鳥居元忠と共に篭城軍を指揮して戦死し、その戦功もあって子の忠利は2万石に加増され三河吉田3万石となる。
墓 正面には寺紋の「重ね扇」 |
五代忠利公の廟所門 |
六代忠房になると、三河刈谷藩、丹波福知山藩、肥前島原藩と加増しながら移動を繰り返します。
十代忠祇(ただまさ)の時、宇都宮藩に異動しますが,
十一代忠怒(ただひろ)になると島原に戻り幕末を迎えます。
・松平忠房(深溝)2万石・・の出世街道
6代忠房は幼少にて家督を継ぎ、吉田からすぐに刈谷へ。
三河刈谷藩 3万石 寛延9年(1632)から慶安2年(1649)
丹波福知山藩 4万5千9百石・・稲葉氏暴行自害断絶の後入封。
慶安2年(1648)から寛文9年(1668)
肥後島原藩 7万石 ・・島原の乱・高力氏時代の混乱是正・長崎監察の要職
寛文9年(1669)から元禄11年
・・現在でも島原では松平の殿様と親しまれ、島原市・幸田町の交流が続いているそうです。
移封のたびに功を挙げ、加増されラッキーな人生を歩んだように思われます。
何かを「持っていた」のでしょう。
移封のたびに功を挙げ、加増されラッキーな人生を歩んだように思われます。
何かを「持っていた」のでしょう。
関連質問でわかったこと
本光寺の寺紋
深溝松平の菩提寺であることから、転封ごとに本光寺も新築され、元の本光寺は名前が変わるか取り壊されたそうです。その都度寺紋の方も多少変化していったそうです。
質問1)刈谷の本光寺はその後どうなったか?(学芸員の方へ)
取り壊されて跡形も無いそうです。
・・でもその経緯を刈谷の歴史家に確認する必要がありそう
取り壊されて跡形も無いそうです。
・・でもその経緯を刈谷の歴史家に確認する必要がありそう
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