2012年2月28日火曜日

ネバーランドの吊るし雛

久し振りに飯田の別荘へ行きました。

途中平谷村の「ひまわりの湯」「道の駅」のちょっと手前(5キロぐらいかな?)

にある ネバーランドに予約しておいたうどん粉を購入するために立ち寄ったところ

東入口から売店のレジの廊下に『吊るし雛』がぎっしり吊るされていました。

御覧のようにぎっしりと実に2000体!!!!

2000体の吊るし雛のトンネル
両端には《土雛》も展示してありました。
この地方に昔からあった土雛

展示期間は2か月間
2月1日(水)から4月15日(日)まで

近くにあったパンフを見ると 中馬街道 足助から飯田まで153号線沿いの
旧宿場で時期を同じくして一斉開催のようです。
尚 前述のネバーランドの吊るし雛は本格的なもので布は正絹を使用、
作りも丁寧で玄人のつくりと見ました。
同様な吊るし雛は昼神温泉の いしだ亭 とおなじだそうです。

参考
石苔亭いしだの二千体雛飾り www.ii-s.org/v3nikki/2012/02/post-32.html -



2012年2月23日木曜日

あの家紋 柏か? 夕顔か?

先投稿で太田姓の家紋について記載しましたが
蔓の内にある葉が何であるか?





気になって仕方ないので下記参考文献のデーターを
いろんな角度から検討することにしました。
柏なのか、夕顔なのか?
参考文献
①『姓氏家系歴史伝説大事典』志村有弘編
②『日本家紋総監』千鹿野茂監修
③『日本紋章学』沼田頼輔著
④『都道府県別姓氏家紋大事典』千鹿野茂著
⑤原色牧野植物図鑑』(牧野富太郎)
⑥『図説草木辞苑』

まず①③から太田姓の出自と「葉と半車」合成紋の関係を要約すると
 
・三河 岡崎の太田氏-ー家紋(夕顔蔓の内に源氏半車)
・藤原氏 秀郷流太田氏ーー家紋(夕顔内源氏車)、(蔓丸内源氏車)
          ・・・・・すべて「夕顔」を採用している
次に②の収録数から
車紋では 全110コの内 半車は8コ更に蔓と葉の合成紋は1コ(1%)のみ
「蔓柏に源氏車」・・・・ここでは柏を採用している
注記には太田氏(三河国より起こる藤原秀郷流)豊橋向山霊園他

柏紋では 全463コ その内で車紋との合成紋は0(ゼロ)
・・・・柏紋と車紋の繋がりは希薄のようだ

夕顔紋では 全15コの内 半車との合成紋は6コ(40%)もあった。
さらに3者(夕顔・蔓・半車)の合成紋は4コと
・・・・非常に関連が大きい

次に④から
愛知県の名字から家紋と出自を抜粋する
名 字    家紋名               出自
太  田   大田桔梗         清源多田氏族
(おおた)  石持地抜き片喰     三河藤秀郷流
左三つ巴         藤秀郷流
夕顔蔓に片輪車    藤秀郷流   
丸に剣片喰       三河藤秀郷流
丸に違い鷹の羽     藤秀郷流、清源族
丸に桔梗        清源 多田氏族
丸に釘貫        清源、頼親流
丸に橘          橘氏族
丸に蔦          清源、新田氏族
・・・・やはり夕顔を採用している

更に前投稿「太田氏の系譜と家紋」で紹介した17コ(具体提示は4コ)の
墓石家紋について⑤と実物を照合・比較
特に葉の特徴から
柏紋では側脈4,5対に対してとカシワは7,8対
夕顔紋では側脈5対に対してユウガオも5対
・・・・・・・近似性から夕顔に軍配(実物に忠実な家紋の場合)

尚 ⑥において
かしは(柏)::::出典:日本書記・万葉集の記載が多く、食器の代わり、神事の道具としての使用

ゆふがほ(夕顔)::出典:源氏物語(夕顔、末摘花、玉蔓)に記載、
*家紋:夕顔花、蔓夕顔、夕顔葉源氏車、破車夕顔 など
源氏車・夕顔の関係が非常に強い

更に加えるに、半車の名称について、上記*のことを考慮して
①の解説では「片輪紋」の発音を嫌って「波切紋」となっているが、
「半源氏車」としたい

以上 私が信頼している以上の6文献の解析・考察結果より、


下記家紋の正式名称(個人的)を
抱き蔓内に抱き夕顔葉と半源氏車」

又この家紋に限って名前を付ければ、明らかに蔓から葉が出ているため
「抱き葉付き蔓夕顔に源氏半車」

というのはどうでしょうか?
たいぶ長たらしくてすみません・・





太田氏の系譜と家紋

最近安城市内のある墓地で驚きの光景を見ました。
総数70基の小さい墓地でしたが、その約半数が太田姓で、
全て「蔓源氏柏」・・この名称については詳細を後述します。
しかも本家・分家の関係であろうか?
蔓の太さと形状・葉の形状・半車の形状が少しずつ異なっていました。
ざっと14種類くらいありました。
そのうち数例を挙げると
太い蔓、大きい葉、正半円の半車

細い蔓、蔓から出た葉、桁太長

細い蔓で先端が鉤状、小さい葉、扁平半車


極太蔓、細長葉、超偏平半車

太田姓の出自と家紋の関係を
『姓氏家系歴史伝説大事典』(志村有弘著)、
『日本紋章学』(沼田頼輔)、『大大名の系譜と家紋』(丹羽基二著)から抜粋・集約すると
太田(大田と併記)姓は地名から発祥。各地に地名があり諸流があり、多岐にわたっている。
・清和源氏ー新田氏の傍系里見氏系ーー家紋(丸に蔦)
・清和源氏ー義光の後裔佐竹氏系ーー
・清和源氏ー頼光流 土岐発祥で丹波国桑田郡太田に移住ーー家紋(細桔梗)
太田道灌もこの流れ
三河国 出自多様:岡崎市にはこの性が多い
-ー家紋(夕顔蔓の内に源氏半車)
(番鴛鴦)、(蔓の内に半車)
・藤原氏 秀郷流太田氏      ーー家紋(夕顔内源氏車)、(蔓丸内源氏車)
・      足利市の系統      --家紋(井桁の内打違え鷹の羽)、(丸に桔梗)

やはり安城も岡崎に近いので太田姓が多く、
家紋も(蔓源氏柏)が多いのは頷けます!





2012年2月13日月曜日

三河一向一揆 本證寺

2月11日午後2時から歴博講座「藤井松平氏の出羽上山藩主時代」があるので、
事前調査のため午前十時に自宅出発。
知立バイパスで藤井インターを降りるとすぐ本證寺に到着。
車は近くのお店の駐車場をお借りしました。

山門
山門前に立ち周囲を見渡してビックリ!
周囲の内堀、東の角に櫓、境内西側には鐘楼とまさしく城郭のような構え!

手前が内堀、右側が櫓、左が山門


本殿も威圧感がありました。
広い境内で、写真には写っていませんが右に前述の櫓、左に鐘楼。

山門から本殿を望む

しばらく境内散策ののち、駐車場のお店に入りみかんを購入。
おかみさんに「立派なお寺ですねー」というと、
「内堀ばかりでなく外堀もあるよ」と教えて頂いたので周囲を歩いてみた。
橋の欄干の右側日陰の境に「そとぼり」の小さな石碑
残念ながら、外堀の名残があるのは10m程度で、すべて造成された口化されていました。
「そとぼり」の石碑もあと何年残るでしょうか?

再度お店によって話したら、「内堀には夏になると蓮の花が咲くから見においで」と教えてもらう。
内堀の方はピンクの花、外堀の方は白い花が咲くそうです。

午後の安城歴史博物館での講座「藤井松平氏の出羽上山藩主時代」で
 家康が頭を痛めた一向一揆は*三河三ヶ寺の一つである
この「本證寺」が主導的に一揆をおこしたことを知る。

講座終了後 帰宅して数年前読んだ 山岡荘八「徳川家康」を取り出しページをめくって新たなことを思い出した。
当時 家康は22歳で、岡崎城主として勢力拡大しつつあった。
永禄6年(1563)家康の兵糧米の徴発に端を発して一向一揆が勃発。
配下の家臣が本願寺派門徒であったため、多数の家臣と敵対することになった。
そこへ母であるお大(久松の妻でもあった)から、「もし一揆に加担したものを誅罰したら、事件は収まるが、松平の力は半減、そこが見えない敵の最も望むところ」、「真の御仏のおしえにしたがいなさい」の助言で一揆は好展開した。
ここに家康の精神面の成長を見るとともに、お大の方の影響力を再確認させられました。

 現地を見た上で「徳川家康」を見直してみて数百年前をイメージしています。
*三河三ヶ寺(野本の本證寺、佐崎の上宮寺、針崎の勝鬘寺)


2012年2月4日土曜日

佐竹氏の家紋

常陸太田市の文化財関連の資料を入手して眺めていたところ、
佐竹氏関連の史跡が何か所あった。
佐竹寺(佐竹氏の祈願寺)、正宗寺(佐竹氏の菩提寺)、佐竹小学校等。
そこで佐竹氏の家紋とその歴史を追ってみることにした。
   複数の書籍とネットを参考にさせて頂きました。

<概要>
佐竹氏は源頼朝と同じ清和源氏で、武田家と同祖新羅三郎義光からきている。
昌義の代 母が大掾家の出であった関係で、常陸へ移り来て、
久慈川水域の佐竹郷に住んで佐竹氏となり、一族一門はながく北関東・東北地方に勢力を張っていたが、義宣が関ヶ原役で西軍について、出羽秋田に国替え、25万石に減俸。
その後徳川氏に属して勢力を回復し、明治に至る。
支流は三河、美濃、和泉、甲斐、土佐、阿波、九州にも広まり、本邦豪族中最も名門の一つといわれる。

<家紋の歴史>
それでは佐竹家がどのような歴史をたどったか?
また家紋はどのように推移していったか述べる。

初代 秀義
源頼朝が奥州藤原氏討伐(文治5年1189)に向かった際、宇都宮まで馳せ参じ参戦した。
頼朝は秀義の参戦に対して大いに喜んだが、一つ気に触ることがあった。それは家紋が頼朝と同じ*「無紋の白旗」であったこと。
頼朝は持っていた扇を与え「これを目印にせよ」。
そこで佐竹は「扇に月丸」を家紋として後代まで伝わったとの事。
諸将旌旗図屏風シリーズミニのぼり旗:徳川家康セット
無紋の白旗
扇に月丸
     

*源頼朝が「無紋の白旗」を最高位の旗であるとしたことが「源平盛衰記」や「太平記」「吾妻鏡」に あるそうです。「軍法侍用集」にも、「将軍家には白布を本とするなり。然れども無紋の白旗、 将軍のほかこれを用うる事なかるべし」とあるそうです。

<主な宗氏と出来事>
貞義ー南北朝時代、足利尊氏について関東きっての有力家に伸ばした。
 その後佐竹の勢力はひどく衰えたが、

 義舜から義重までの4代ー戦国時代 中興の祖常陸全域から下野、陸奥にまで張り出す一大領国を形成。

義重ー秀吉の天下統一軍が関東に進んだ時、義重とその子 義宣は陣門に伺候して秀義の取り込むことに成功。54万5千石が義宣に安堵された。
その後水戸城を本拠地とする。

その後関ヶ原の戦後、家康から会津上杉景勝と通じたことなどから、20万5千石に切り下げられ出羽の秋田へ左遷国替えとなる。
しかし以後辺地の大名でありながら、子孫営々と励んで、名家の誇りを持ち続けた。
そして明治維新の際東北諸侯が徳川家支持の列藩同盟を結んだ中にも、ひとり官軍としての姿勢を崩さなかった。

<替紋>

佐竹桐「中陰五七鬼桐」
源氏香「花散里」