2011年2月19日土曜日

ミステリーツアー2日目

昨夜はしっかり食べて、しっかり飲んで、しっかり睡眠。

7時朝食 今度は別館幕張ホール1階のコートダジュールです。

8時バス乗車でガイドさんとホテル前で記念撮影。



③○で有名な日本三○○
これは水戸偕楽園でした。
又この園内には9代斉昭公の別邸である好文亭と光圀公と斉昭公を祀ってある常盤神社がありました。
ここで偕楽園についての基礎知識

・そもそも偕楽園は水戸藩9代斉昭公が自ら創設した名園で、日本3大公園のひとつ。
名前の由来は、中国の古典「孟子」の「古の人は民と偕に(ともに)楽しむ。故に能く楽しむなり」と言う一節からとったもので、藩主だけでなく、家臣や庶民の遊園に供されたそうです。

・これに対して岡山の後楽園は最初「菜園場」「御茶屋」「後園」と呼ばれていましたが、明治4年突然「後楽園」に改称されました。
なぜでしょう?
理由はこうでした。
そもそも御三家水戸家の上屋敷 小石川に「後楽園」がありました。
これは光圀が朱舜水に選名させたたものです。
出典は『岳陽楼記』の句「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」
ところが慶応3年(1867)10月「大政奉還」明治2年「版籍奉還」の後、
(旧藩主)昭 武は自ら進んで小石川の江戸上屋敷を新政府に差し出しました。
新政府は明治4年ここを陸軍の砲兵工廠にします。
まだ未着手であった「後楽園」が意外なことに、西欧人から日本庭園の人気スポットになっていました。
昭 武は、名君の誉れ高い水戸9代藩主斉昭の18男です。前藩主の慶篤は兄(斉昭長男)、将軍慶喜も兄(斉昭7男)です。そして、慶喜より2つ年下の兄(斉昭 9男)が岡山の9代藩主池田茂政です。水戸家の「後楽園」を名前 だけでも残したいという思いを、昭武は兄藩主たちに語ったのでしょうか。それを聞いた池田茂政が、岡山藩の「御後園」を「後楽園」に改名しようと提案した のでしょう。
要するに「小石川後楽園」が本家、現在の3大名園「岡山後楽園」は分家のようなものでしょうか?

駐車場の前では、スタッフの方が来週20日から始まる梅祭りの準備中でした。
実はここは梅祭り中だけ臨時駐車駅となり、特急以下すべての列車の停車駅となるそうです。





駐車場から直接階段を上らず、スロープ通路を上ることにしました。
園内の梅は三分咲きということで早咲きはかなり開花が進んでいました。


好文亭:徳川斉昭および正室が別荘。2階3層の建物は柿葺き(こけらぶき)、奥御殿は茅葺き。
2階からは園の南半分が見渡せ、最高でした。
各部屋には梅、菊、竹等の見事な襖がありました。

2階からの眺めは見事でした


これは茶室の待合室。烈公の茶技に対する教訓である次の句が気に入った。
「功詐不如拙誠」=匠にいつわるより拙くとも誠であることが良い。
待合

出口近くには常陸神社があり、義公(二代光圀)と烈公(9代斉昭)が祀られている神社です。


11時40分偕楽園に別れを告げ、一路港町での昼食会場目指す。
とはいってもどこへ行くのでしょう?
バスの進路の道路標識は犬吠崎に向かっているようですが・・・・

12時20分 結局 昼食は予想外の 
那珂湊(関東を代表する観光市場)でした。
昼食は 「森田水産」2階の食堂でした。
1階は海産物の直売所で、食後お買い物。

新鮮な刺身が・・触れ込みは裏切られました

1階販売所の一角では、今が旬のあんこう!ちょうど調理中でした。

あんこう 調理中

隣には調理出番待ち・・ダラーとだらしなく


⑩話題の新名所
羽田空港国際線でした。
てっきりスカイツリーと思っていたとガイドさんに話したら、予定より交通渋滞少なかったので運転手さんと相談して、スカイツリーにもっと近づける道路を選んで再徐行してくれました。

現在515M

羽田新国際旅客ターミナルへ

1階から3階の搭乗手続きまでエスカレーターであがり、1時間半後の集合場所。
国際線の建物は外国の人から日本を印象付ける指向が至る所にありました。
3階の「江戸小路」「江戸舞台」、5階の「ほっとプレイス」「クールプレイス」、
展望台からは飛び立つジェット機がまじかに見られました。

 ここで一番驚いたのは、地方からではなく東京都民が大勢観光に来ていたことです。
その一人に聞いたところ、2週間ほど連日バス五台連ねて都内周遊ツアーが大盛況との事でした。
新聞の切取を見せてくれました。

 最終観光地の羽田に別れを告げ、一路 東京駅へ。


 2日間好天に恵まれ、しかも温暖でした。

名古屋まで行く予定でしたが、三河安城で途中下車添乗員の藤井さんが手続きをしてくれ、証明書を発行してくれました。
お陰で料金発生なしもなく、早く自宅に帰ることができました。

行き先わからないミステリーな旅を満喫できました。

2011年2月18日金曜日

ミステリーツアー 1日目

新聞広告で見たミステリーツアーに参加しました。

旅の触れ込みポイント
どこへ行くかは当日までお楽しみ・・そのうたい文句は
①往復新幹線グリーン車
③○で有名な日本3大○○
④地上○階!高さ○mの超高層ホテル
⑧○○時代から庶民の信仰を集めた○○はパワースポット
⑨時代劇のような町並みを散策

⑩話題の新名所へも
⑪うれしい!福袋のおみやげ

以上11項目の触れ込みですがどこへいくかわからず、指定された
名古屋駅あおなみ線改札口へ7時半集合。
43名

①のグリーン車に乗車・・・実は”こだま”でした・・でもグリーン車座席指定には違いない
これから8号車に乗車

贅沢な各駅停車、天気もよく、お蔭様で富士山がゆっくり・きれいに見えました。
望みなんかに乗ればこんなにゆっくりは見えません・・これが贅沢!


東京駅にはバスガイドさんがホームまでお出迎え
まずはバスで皇居1周した後、バスから降りて二重橋で一こまパチリ

再度バスに乗りへとある場所??へ出発

1時半前にやっと昼食場所であるドライブイン「米屋」さん
そこは⑧のパワースポット新勝寺 成田山のまん前でした。


オプションで注文した弁当

成田山の総門
<御縁起>によると
「成田山は御護摩」といわれるように、御護摩の霊験利益は数限りなく、江戸元禄より歌舞伎の成田屋市川団十郎をはじめ多くの人々が成田山の不動明王を信仰している。
真言宗智山派 大本山成田山金剛王院新勝寺のご本尊不動明王は嵯峨天皇の勅願により弘法大師空海が自ら敬刻して開眼し護摩法を修せられた尊像です。
天慶2年(939)平将門が反乱を起こすと朱雀天皇の密勅を受けた寛朝大僧正はこの尊像と共に関東に下り、下総の国、成田の地にて、21日の平和祈願の護摩を修めました。その満願の日、兵乱は平定され、この地に新勝寺の寺号を賜って成田山が開山されました。
   ・・・実に尊像が平将門に勝利した訳です。・・不動明王恐るべし

 その後 東関東自動車道を引き返す。

⑨時代劇のような町並みの佐原市・・小江戸
佐原はかつて利根川水運の中継基地として
繁栄の往時の面影を残す。
土蔵造りの商家や千本格子の町家が建ち並び
小江戸の情緒が漂います。
江戸時代には豪商問屋が数十軒川を挟んで並んでいたそうです。
その中で「ジャージャー橋」といわれる桶橋など
伊能忠敬も生まれの九十九里からこちらの伊能家に養子に来た。
橋の中央部から時々ジャーと水があふれ出ます

町並みはこんな古い建物がいっぱい
佐原をあとに
夕日に迎えられ、とある高層50階のアパホテル&リゾート<東京ベイ幕張>に到着
④地上○階!高さ○Mの超高層ホテルは
東京ベイ幕張  49階、高さ180Mでした。
部屋に入り外を見るとすでに灯りがポツポツと

24階からの眺め
4階大浴場10種類の風呂に入って 一階の ラ・ベランダへ
バイキング 最初の皿
ビールのおいしいこと
満腹で早めの就寝に着く

2011年2月15日火曜日

あじさい寺ー本光寺・・・旧本堂の遺構発見:現地説明会

長たらしいタイトルになってしまいました。

中日新聞の記事を見て幸田町の紫陽花で有名な本光寺へ出かけました。

深溝松平家の菩提寺である本光寺の文化財調査で、境内から旧本堂に伴う基壇状遺構や溝が見つかり、その説明会があるとのことでした。

私としては特別遺構自体に興味があったわけではなく、14松平氏とか18松平氏とかいわれている松平一族の菩提寺であったのでその関連で新しい情報があればと思い参加しました。

昼前に着いたのでちょっと下見のつもりで本光寺へ向う。
23号深溝口信号を左折して100mほどで到着。

駐車場傍に50基ほどの墓地発見!!


昨年夏で中断していた墓地参りによる家紋集めに火が付き早速カメラですべての家紋パシャリ。
・・実は 《実録》全国墓石家紋巡り の編集が大変なんですが・・・・
駐車場の後ろが一般氏子の墓地 その奥に本殿があります

近くの中華料理屋でランチ780円ボリューム満点でした。
食後、説明会の受付で資料を受け取り説明会が開始されました。

始めに幸田町役所生涯学習課長より
今回の説明会の趣旨説明
幸田町教育委員会では国史跡指定を目指す「本光寺文化財調査」を実施中です。
「今回実施した発掘調査の一環として、明治中ごろまで本光寺に存在していた本堂を含めた旧伽藍の確認を目的として実施したものです。
この度、発掘調査により旧伽藍が確認されたので現地説明会を開催することとなりました。」
左が学芸員の説明者 右の生涯学習課長 
発掘でわかったこと
  寛政3年寺領絵図に描かれている本光寺旧伽藍の確認。
絵図では、現在の紫陽花、梅園の場所で、事前に地中調査のため電気やレーダーによる探査を実施。その結果と絵図から発掘調査を実施。
 その結果下図のように30cm掘った所が本堂の基壇と思われる段差が発見できました。
この位置はほぼ絵図と同じ位置だったそうです。
右が旧伽藍の基壇と思われる高まり




深溝松平の歴史
 蒲郡の五井松平が本家(始祖の忠景)。
忠景の二男 松平忠定(たださだ)が本家より深溝を与えられて、一家を起こした。
忠定は兄元心と共に三河国額田郡深溝城主大庭朝満を滅ぼし、松平宗家五代長親から深溝城を与えられる。
初代忠定以来深溝を領地としてきましたが、
二代好景 西尾の善明堤で討死。
 三代伊忠 長篠の戦いで討死。

四代家忠の代に、家康の関東移封に伴い深溝を離れ関東に諸領地をもらいます。
武蔵国内で1万石を与えられて、忍城主になり、
さらに文禄元年(1592)2月に下総国上代、同3年1月に下総国小見川に移された。
家忠は関が原役の始まりとされる伏見城の攻防戦で鳥居元忠と共に篭城軍を指揮して戦死し、その戦功もあって子の忠利は2万石に加増され三河吉田3万石となる。


墓 正面には寺紋の「重ね扇」
五代忠利公の廟所門


六代忠房になると、三河刈谷藩、丹波福知山藩、肥前島原藩と加増しながら移動を繰り返します。

十代忠祇(ただまさ)の時、宇都宮藩に異動しますが,

十一代忠怒(ただひろ)になると島原に戻り幕末を迎えます。

・松平忠房(深溝)2万石・・の出世街道
 6代忠房は幼少にて家督を継ぎ、吉田からすぐに刈谷へ。

三河刈谷藩 3万石 寛延9年(1632)から慶安2年(1649)

丹波福知山藩 4万5千9百石・・稲葉氏暴行自害断絶の後入封。
慶安2年(1648)から寛文9年(1668)
肥後島原藩 7万石 ・・島原の乱・高力氏時代の混乱是正・長崎監察の要職
寛文9年(1669)から元禄11年 
 ・・現在でも島原では松平の殿様と親しまれ、島原市・幸田町の交流が続いているそうです。
移封のたびに功を挙げ、加増されラッキーな人生を歩んだように思われます。

   何かを「持っていた」のでしょう。

関連質問でわかったこと
 本光寺の寺紋
  深溝松平の菩提寺であることから、転封ごとに本光寺も新築され、元の本光寺は名前が変わるか取り壊されたそうです。その都度寺紋の方も多少変化していったそうです。
質問1)刈谷の本光寺はその後どうなったか?(学芸員の方へ)
    取り壊されて跡形も無いそうです。
・・でもその経緯を刈谷の歴史家に確認する必要がありそう
  
また丹波福知山の本光寺は現在は神社になっているそうです。

質問2)本光寺の寺紋は何ですか?
(学芸員の方は知らなかったため住職の方を紹介され、回答を頂いた。)

当初は松平宗家と同じ 「三つ葉葵」


家康が征夷大将軍になってから、葵紋を使うのは畏れ多いということで
家康が馬印に使っていた「5本骨扇」に替えた。
5本骨扇


島原藩に移ってから「重ね扇 10本骨」
・・・本光寺が幸田町深溝に戻った現在も「重ね扇 10本骨」のまま。
4箇所にその寺門を見つけることができました。廟所内にあった鬼瓦の写真を紛失したので残りの3つ。

廟所内の墓正面


お墓の建物の頂上
山門の手前


2011年2月8日火曜日

ふくろうの羽の秘密

2月5日土曜日 快晴 天気予報は暖かい一日最高気温10度の予報!
でも朝6時はマイナス3度でした。

今日はハナモニ鳥の最終日。
いつもの駐車場に集合(13人)。
初めての人がいたので、米山会長よりモニタリング方法の説明。
・片道1.5kを時速2キロで往復
・両側、上空50mで見聞きした野鳥を記録
・囀り(c)、見た場合(v)

28種類の野鳥をモニターしました。
野鳥の会会員の方が三脚付のスコープで要所は見せてくださったので特に良かったです。
中でも記憶に残った鳥は
・柿畑の枯葉をひっくり返していた ツグミ
・JA牛哺育場 ソメイヨシノの古木 コゲラ (5M至近距離)
・唐沢さん牛小屋の斜面のハクセキレイのつがい・・・頭頂の黒いのがオスだそうです
・一般道に降りて畑の向こうの林縁の枯れ木の上の ハイタカ(スコープ)
・ビニールハウス脇 モズ (スコープ)
・ハナモニ(植物)のBコース(谷間田んぼ沿い) ホオジロ

でもなんといっても今日のメインイベントは
折り返し地点付近の小川で発見した オオコノハズクの羽
米山会長の指示で周辺も徹底的に収集しました。
その内の1つは産毛にピンク色の肉が付いていたので、今朝か昨日ハイタカあたりに襲われたのではないかとの推測。
一番長い風切り羽根が15CMぐらい
羽の先端が丸みを帯びている等の特徴から オオコノハズク
だそうです。

収集できた羽
米山会長から、ふくろうの仲間は夜間狩をするため、小動物に気付かれない様に羽ばたきの消音装置が羽に仕組まれているとの話を教えてくれました。

そこでOさんが自宅に持ち帰り、顕微鏡で写真を撮ってくれました。

普通の羽の上に産毛がたっており、触るとひじょうに柔らかです。
この消音の構造が新幹線のパンタグラフに採用されているそうです。

拡大写真

2011年2月2日水曜日

へっぴり腰・・「腰」についてあれこれ

2月2日・・夫婦の日、そして大事な人の誕生日・・・・

2時過ぎテレビを見ていると、私の好きな「ことばおじさん」のコーナー

「へっぴり腰」の話題で花盛り

例の言葉おじさんによれば「へっぴり腰」とは日葡辞書(*1)

 「屁をひる姿勢」から来た言葉で、中腰で尻を後ろに突き出した不安定な姿勢

つまりおならをするような姿勢になることから「へっぴり腰」というようになったそうです!

語源辞典によると

「へっぴり」とは「へひり」の促音添加した語


(*1)1604年長崎で発行すべてオランダ語で日本語を紹介、約3200語収録


また 昨年末、西尾市において

「第5回本まつり特別企画 市民ボランティアの(岩瀬文庫(*2)ミニミニ閲覧室」

が開催され、リストの中から 『屁』大正15年1925を閲覧したことを思い出しました。

この本は屁の語源・屁をひる姿勢・屁の科学・・・等を

実にまじめに400頁に亘り事細かにかいてあり実に興味深いものでした。

用意された閲覧リストには、著者本人の解説として(これくらい無用の本もあるまいと書かれている」

(*2)岩瀬文庫について
http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/iwasebunko/museum.html古文書など貴重な書物がたくさん保存されており、東海地区ではちょっと有名な文庫です。

 次に
「腰」の用例について
「腰」の慣用句は2種類あります
人の心理・姿勢を表す

人の心理をあらわす・・・・・腰が引ける、本腰を入れる

姿勢をあらわす・・・・・・・・・逃げ腰、けんか腰、及び腰


 mm

又、「腰」を使った慣用句、肉つき=月の漢字もたくさんあります。


慣用句では
腰が重い(軽い)、腰が高い(低い)、腰を折る(割る)、
腰が引ける、腰を落ち着ける


肉つきの漢字では
肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓、心臓・・
その他 脳、小腸、大腸、膀胱