2011年1月25日火曜日

雪の朝の散歩・・・・ベニマシコ発見!

1月16日の朝 外は一面銀世界 快晴。

昨日のハナモニ(鳥)は 雪の中で小鳥はすべて灰色に見えたので、今朝は新鮮な目で散歩。
北西の昼神温泉方面の山々
中央が高鳥屋山(1384M)

我が家の駐車場もこんな感じ

左に折れ下り坂
ここは私のお気に入り

ログハウスの一軒屋過ぎたところで妙な足跡発見
左のUの字カーブはキジ? 右の点々は狸?

三又の足跡がくっきり
キジらしい足跡は両側の道を2回横切って、柿木のふもとから足跡が消えてしまった。

しかし狸らしい足跡は、道の端を進み、牛小屋(哺育センター)の中を周回した後、

またもとの道に戻り、先に進んで第2カーブのところで、右の林の中に消えてしまった。

道なりに左に曲がったところ(丸八工業の建物の手前)で、道端の小さい枯れ木に小鳥発見!!

ちょうどこちらを向いている。

ピンクの胸、太い嘴・・まさにこれは”ベニウマシコ”ではないか!!!!

初めて実物を見たので、口をあんぐりあけて見ている間に飛んでいってしまいました。

確実にいい写真が取れる距離だったのに・・おしい。

引き返して今度はハナノキの木道へ降りていきました。
ギッシ ギッシ と小気味良い雪を踏しめる音を聞きながら・・


2011年1月17日月曜日

ハナモニ 鳥

今日1月15日は今期第2回目のハナモニ鳥の日です。

参考までにハナモニは植物、鳥、哺乳類があり、植物と哺乳類は第3日曜日。
鳥は繁殖期(5月から6月の3日間土曜日)、冬期(12月から1月)の2期行っています。

朝から雪が降り始めたので、中止と決め込んでいると、9時5分(開始から5分後)我が家の前を通りかかったので、早速途中参加することにしました。
しかも参加者は11人。(通常は5,6人)


柿ノ木 に カワラヒワ 12羽・・寒さをこらえて膨らんで見える、柿か枯葉か区別できなかった。

牛小屋の屋根に ハシブトがラス 22羽・・牛の餌を狙って待機しているらしい。
すべてハシブト、いつもはハシホソが何割か入るのですが・・
この牛小屋はJAが管理している子牛の哺育している場所です。

乳用哺育センター

Bコース終点 で キセキレイ 1羽・・・低空飛行で近くを通過
             ジョウビタキ2羽・・私は見つけることはできませんでした。

折り返し地点付近 シジュウカラ、エナガ、コゲラ


折り返し地点 手前の細い木がハナノキです

牛小屋手前 シロハラ・・飛んでいるところは腹が見え白かった。
         シメ・・声は聞きますがまだ見たことがありません。
予定通り11時30分終了。

聞き入っている若者グループ
翌日は丸八工業の手前の低木に ベニマシコ 始めてみました。

ゆべし作りとヒヨドリ

毎年恒例となったゆべしつくり

雪の日ゆずの仕入れのため「およりてファーム」(飯田市鼎東鼎)へ12個購入。
泰阜村産でした。
4個入り200円と安い。

ゆづと一緒に買った大根を切干にして梅の木に干すとすかさずヒヨドリが様子を見に来ました。
切干大根とわかって飛び去りました。
いつもはここにりんごを突き刺しているので、又おいしいものかと思ったのでしょう。
それにしても ヒヨドリは食い意地が張っている。

ヒヨドリは笊の右上と右直下の2羽いますがわかるかな?
その間ゆべし作り
自宅で手作りの味噌をベースにくるみ・炒りゴマ・砂糖・上新粉を混ぜ
空にしたゆずの中に入れて、蒸し器で3時間蒸します。
配合比率は我が家秘伝です。
なんといっても自家製の「手前味噌」がみそです。
まずは最初の12個蒸しあがり この状態で1週間乾燥
まず12個作りましたが、種が残ったので再度ゆづを仕入れに「およりてファーム」へいきましたが、泰阜村からの搬入が無く在庫ゼロ(雪のため持ち込めなかったみたいです。
やむなく「下条道の駅」に併設されている「うまいもん館」で12個追加購入。
ここでは下條産で2個入り150円でした。傷がほとんどなくきれいで、大きさもおよりてより大きかったです。
持ち帰ってトップを切り取り、中身を取り出し、残りの種をいれました。
これで合計24個になりました。
蒸し終えて軒下に干していると又もや ヒヨドリが見つけ けたたましく鳴きながら突付いたので、屋内に入れる。
早速突っついて おいしい!
けたたましく鳴いています

2011年1月13日木曜日

松坂屋400周年・・漱石も詠んだ伝統の「赤い暖簾」

今日の中日新聞9面に「松坂屋400周年」の記事が写真付で載っていました。
写真には店員が赤い法被を着ていました。

残念ながらこの写真載せれません。
その法被の背には松坂屋の商標
 
・・家紋流に言えば「丸に隅立て井筒内に籐の字」でしょうか?

この商標・暖簾は赤地のためよく目立ったようで、かの文豪・夏目漱石が
     「乙鳥つばくろや 赤い暖簾の 松坂屋」
と詠んでいるそうです。

<下の写真は当時のものではありませんがイメージとしてネットにあった暖簾です>

松坂屋なのに「籐」とはこれ如何に?

それは松坂屋の歴史に関係ありそうです。
・慶長16年(1611)織田信長に仕えた伊藤欄丸祐道

「清洲越え」で名古屋本町に呉服小物問屋の暖簾を揚げる。

・その後明治8年(1875)茶屋町に呉服の小売。

その後大阪にも出店しています。

 
この当時大阪の「えびすや」を譲り受け大阪進出を果たす

 ・明治43年(1910)広小路の栄町デパートメントストアー

・大正14年(1925)南大津町(現在の場所)に移り「松坂屋」と改称。

・平成19年(2007.3.14)大丸と経営統合し、「大丸松坂屋」、Jフロントリテーリングの完全子会社となる。

 次に松坂屋と同様に、同時代から創業していたのが丸栄です。

現在の商標

創業当時の店の様子

   紋章の名称は「丸に11の字」でいいでしょうか?


2011年1月11日火曜日

300キロの鏡餅・・小倉城

最近ニュースで小倉城の鏡餅のニュースをよく耳にします。
小倉城


まず年末にお城に法被を着た人たちが大きな鏡餅を持ち込む様子をTVで見ました。
残念ながらその映像が入手できませでした。


天守閣1階に高さ約60センチ重さ約370キロの餅を置き、
縁起物の金の扇やゆずり葉などを飾った。
大鏡餅は下の段が直径約1メートルあり、 
小笠原家の家紋「三階菱」にちなみ3段重ね。

大鏡餅の飾りつけ



餅は19日に、約225キロのもち米を使い市民がつき上げた。


来年1月8日の鏡開きまで公開され、同10日にはお汁粉にして約2千人に無料で振る舞われる。

大鏡餅の飾り付けは天守閣再建を機に始まり52回目。
広津会長は「2011年が明るく幸福に満ちた年になってほしい」と話した。
(直径:下段1メートル、中段80センチ、上段60センチの3段重ね)最上段のみかんはザボン!!
小倉市長も三階菱の法被姿で飾り付けに参加

その後本日NHK3時前の「お元気ですか日本列島」でも鏡開きのニュースがありました。
鏡割り(大きな槌)で男性が割って、女性が包丁で細かく切っていました。



ところで年末に見た法被の紋章「三階菱」が気になって調べてみました。
「三階菱」といえば小笠原氏しか知りませんが、果たして小倉藩に小笠原氏が居たのかな?


小倉藩の歴史

手持ちの「藩史事典」によると確かにおいでになりました。
天正十五年(1587)豊臣秀吉により毛利勝信

慶長五年(1600)西軍加担により除封、

同七年細川忠興が中津から39万石で移る。

寛永九年(1632)小笠原忠政が播磨明石から15万石で入封

小笠原氏は10代も続き幕末まで

2011年1月9日日曜日

雪の日

年末の飯田は大雪となりました。
小春ちゃんと雪遊びに興じる。
自分で雪被り

低い松林の間を探検

しっかりつかまって

急斜面を滑走  ちょっとビビッテいます


雪だるま 左が小春作成

2011年1月8日土曜日

崇源院と徳川秀忠の位牌のなぞ

久しぶりに自宅に帰りテレビで「歴史秘話ヒスとリア」で「江」の秘話を知りました。
昨年2月長浜へ旅行して今年の大河ドラマとなることは知っていた。

この番組で始めて知った秘話は
京都東山の養源院というお寺にある位牌には「菊」「葵」「桐」の家紋があるということです。
この位牌は徳川秀忠と崇源院・江の2人のもの。

 ではなぜこのような3つの家紋がついた位牌ができたのかというのが今回のテーマです。
これを解くには2つの疑問を考察する必要があります。
①そもそも養源院は誰が何のために建てられたか?

②位牌の家紋の意味するところは?

まず①の問題について
養源院の創建された由来について

・ このお寺は豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要のとき(文禄3年・1594年)に創建されました。

・ 一度は焼失されたが、淀殿の妹で、徳川秀忠の夫人であったお江の方(後の崇源院)の願いにより、元和7年(1621年)に伏見城の遺構を移築して再興された。

・以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られている。
・・・従ってこのお寺は浅井長政・お市の3姉妹の内、長女”茶々”(後の淀殿)、3女”江”(後の崇源院)、及び秀忠と江の子”和子”・・・・・・へと
母お市・子の茶々・江そして孫の和子と3代に亘る女系の思いが込められているように思えてなりません。

次に②の位牌の家紋の意味するところは?

位牌には「菊」「葵」「桐」の3つの家紋が刻まれていることでした。
(TVでは見たのですが、ネットで探すことができず残念。)きっと、豊臣家と徳川家、徳川家と天皇家との関係の改善を願った東福門院(秀忠の子・和子が後水尾天皇に入内後の名称)の切なる気持ちが現れているのではないだろうか?


説明のため家紋の順序を「葵」「桐」「菊」と変えると説明しやすいです。
**実際の位牌には最上部に「菊」、中位に「葵」最下位に「桐」となっていたと思いますが、これは当時の格付けを意識したものではないかと個人的の考えています。


まず徳川秀忠と江は夫婦ですから徳川家の家紋「葵」。これは判りやすいですねー。


次に「桐」は豊臣秀吉の「太閤桐」
 最後に「菊」は天皇家の象徴であり、和子が後水尾天皇に入内し、徳川家と天皇家の関係が深いことをあらわすためと思われます。


歴史的に無知な個人的な意見を入れてありますので、もし間違いがありましたら、教えてください。