2010年10月30日土曜日

葵紋その1・・『葵の御家紋由来の事』

徳川家の家紋がどのようにして葵の紋になったか?

いろんな説がありますがここでは江戸時代の国学者 天野信景(さだかげ)が
随筆集に書いたものを編集して紹介します。

 『日本随筆大成』第三期15巻『塩尻』の「葵の御紋由来の事」  

徳川は清和源氏流であるという家系図

源 経基(清和源氏の祖)ー満仲ー頼信ーー

  頼義ー
(長男)義家(八幡太郎)八幡神社の氏子「三つ巴紋」ー新田氏の祖
(次男)義綱 (賀茂次郎)賀茂明神「一つ葵」
(三男) 義光(森羅三郎)森羅明神「割り菱」

三つ巴 八幡明神 長男:義家
太中黒 新田氏
一つ葵 賀茂明神 次男:義綱
四つ割り菱 森羅明神 三男:義光
         

ー徳川氏が三州賀茂郡に入封→

ー栄えて賀茂朝臣ーーー長男義家の巴紋を葵紋に書き直し徳川家紋とした
三つ葵
となっています。



でもでも 徳川氏が新田源氏を名乗るならなぜ新田氏の「引両紋」を引き継ぐべきではないか?


2010年10月28日木曜日

薬師如来の守り神 十二神将の疑問

十二神将(*1)は日光、月光菩薩と共に薬師如来の守り神といわれておりますが、
2008年8月に山岡荘八著『徳川家康』を読んでから一つ疑問が沸いてきました。

それは『徳川家康』1巻”今生未来”の項において、
臨月を迎えたお大が、侍女の百合に鳳来寺の峰の薬師へ行って
寅年の守り神”真達羅(しんだら)大将 
を盗んでくるように命令する下りがあります。

そこで、インターネットで検索したところ”寅年”は迷企羅(めきら)大将
となっていました。
どちらが正しいのだろう?
まさか山岡荘八が間違うわけも無いであろうに?
この疑問がずっと頭の片隅に残っていました。

ところが今年10月に山梨県勝沼市へぶどう狩りに行った際、帰路で勝沼ICの近くの大善寺に立ち寄ったところ、国宝薬師堂に十二神将があり 住職に前述の『徳川家康』の疑問をぶっつけたところ、
住職いわく「経典により、並び順が逆になります。従って寅年の守り神は変わります」との話でした。

早速自宅に帰って過日調べたインタネットの十二神将の並び順を見直してみると、
逆から見れば確かに”寅年”は後から三番目で真達羅大将となります。
これだと『徳川家康』と合致!

因みにインターネットの記事にはの経典は「薬師瑠璃光如来本願功徳経」となっていました。

しかし『徳川家康』、鳳来寺の経典は何か不明です。
どなたかご存知の方教えてください。

参考までに
(*1) 十二神将について(経典は「薬師瑠璃光如来本願功徳経」

鳳来寺

子年 宮毘羅大将(くびら)・・太刀を持つ・・・・・・・亥年

丑年 伐折羅大将(ばさら)・・宝剣を持つ・・・・・・戌年

 寅年 迷企羅大将(めきら)・・独鈷を持つ・・・・・酉年

卯年 底羅大将(あんてら)・・太刀を持つ・・・・・・申年

辰年 額爾羅大将(あにら)・・矢を持つ・・・・・・・未年

巳年 珊底羅大将(さんてら)・・法螺貝を持つ・・午年

午年 因達羅大将(いんだら)・・鉾を持つ・・・・・巳年

未年 波夷羅大将(はいら)・・弓矢を持つ・・・・・辰年

申年 摩虎羅大将(まこら)・・斧を持つ・・・・・・・・卯年

酉年 真達羅大将(しんだら)・・斧を持つ・・・・・・寅年

戌年 招杜羅大将(しょうとら)・・太刀を持つ・・・・丑年

亥年 毘羯羅大将(びから)・・・・・・・・・・・・・・・・・子年

2010年10月19日火曜日

ハナモニと新そば会

ハナノキ友の会代表より連絡事項


11月17日はハナモニの日です。


ハナモニ終了後の昼食は私の振舞う「新そば会」となっています。

起床は予定より1時間以上遅れ、朝飯もそこそこにそば打ち開始。
参加予定人数は13から15人との情報から1.5キロ(15人分)二八そばを打つ。
何とか8時半に後片付けまで完了。
<技術面での成果>
・”四つ出し”100cmにすると巾出し必要なし!ok!
・”肉分け”時に中央部を”本延し”方式は巻き取り時に若干しわ発生。△
  前回より改善されたが、不満足。
・切りは十二枚畳でまずまず、しかし切り揃え今一。△


急いでいつもの集合場所(たねほさんのはなの木湿地看板)に行く。定刻5分前着。


K代表から連絡事項、班担当の話の後、植物班と哺乳類班に分かれてスタート。
最初に目に飛び込んだものはセンブリです。
昨年杉の間伐で日当りがよくなったためのようです。
センブリ

白い花はお星様のようです。

木道に入ると、先月補修した板の隣の板が腐食しており、足を乗っけるとジワーッと沈み、知らずに踏むと大怪我の元!!
家に帰り交換用の欅の板を5枚600MM巾に切って持ってきて、
寸法の合う二枚交換しました。
腐食した板を取り除いた状態

Bコース(田んぼ沿い)に入って板の上をのんびりと散歩しているシャチホコガを発見。
Hさんが棒で突っついたので、突然得意の威嚇のポーズ!!
尾を180度前に折りたたみ、尾の先端に二本の角を立てるので、
その様が”シャチホコ”に似ているのでその名がついたそうです。
シャチホコガの幼虫

最初細長い1直線の芋虫でしたが、威嚇のポーズになると
最近結成した”いもむしガールズ”(ギャルは少し過ぎている) が大興奮。
シャチホコガもそれに答えてか、いつまでもこのポーズでした。


田んぼ側の畦道に先月まで紫色の花を咲かせていたツリフネソウに実がなっていました。
何気なく触ると急にリズミカルな感触が指に伝わり、一気に鞘が弾け種が飛び散りました。
ツリフネソウの花 2010.9.15




ツリフネソウの鞘 指で触る前




指で触って弾けた後


外的刺激により種子の鞘が弾け、種を撒き散らすのは、
ツリフネソウ科の草本にほぼ共通した特徴ですだそうです。
ホウセンカはツリフネソウ科の園芸植物ですが、 
日本のツリフネソウ科の野生種としては、
「ツリフネソウ」「キツリフネ」「ハガクレツリフネ」「エンシュウツリフネソウ」などがあるそうです。
Cコースではツルリンドウの光沢のある赤紫の実が鮮やかでした。


Cコースの終わりの場所で大きい山栗の木があり、
一杯地面に落ちているので、全員栗拾いに真剣
皆さん栗拾いに懸命です
     新そば会                             
観察会(モニタリング)終了後、12:30から「新そば会」開始。


今朝打ったそばを茹でて全員に振舞った後、ゆっくり食べました。


筆者が食べ始めるところです。右隣は噂を聞いて飛び入りの地方新聞記者Sさん

こんな感じでL型に12人
参加者全員が季節感あふれる手料理を持ち寄っていただき、テーブルは満載でした。
Oさんのキノコ入り寿司(大きい寿司桶のまま)、
I さんのキノコサラダ・ゆべし、Nさんの韮炒め、
Nさんのパンプキンケーキ、Sさんの甘皮付き栗、等々


そばを食べた後はそばがき教室。
「お椀方式」と「お鍋方式」の二種類。
お椀方式は簡単にできます。
お鍋方式はちょっと根性が要りますが、
滑らかで美味しいと皆さんの評価でした。
懇談の後 14:30ごろ解散しました。

2010年10月10日日曜日

秋の七草と家紋(その2 新・秋の七草)

皆さんは「秋の七草」といえば山上憶良 ですか?

でも今日では時代背景が変化しすぎて、若者にはピンとこない草も多いのでは。

 そこで現代の人(と言っても昭和10年ですが)が選んで「秋の七草」の続編をつずけます。といっても家紋は菊だけ・・・

新・秋の七草 
昭和10年当時の名士が選んだ秋の七草   
コスモス             作家 菊池 寛
白粉花(オシロイバナ)   作家 与謝野晶子
秋海棠(シュウカイドウ)  作家 永井荷風
葉鶏頭(ハゲイトウ)    作家 長谷川時雨
菊(キク)          植物学者 牧野富太郎
彼岸花(ヒガンバナ)    歌人 斉藤茂吉
アカマンマ(タデ)      俳人 高浜虚子 

コスモス キク科 
     作家 菊池 寛 (選)

コスモス

秋風に静かに揺れ動く風情はモーたまりません。
一夜の嵐に倒れても、倒れたまま乱れ咲く。
この弱さが却って人の心を惹きつける。
「心中を せんと泣けるや 雨の日の
     白きコスモス 紅きコスモス」与謝野晶子
流石に晶子らしい歌で、情熱も悲しみも強烈です!


・オシロイバナは明治12年イタリア人の美術教師が種子を持ち込み、明治末に日本全土に広がった。
・和名「アキザクラ」
・歌「秋桜」は山口百恵の代表曲、
・コクモスの命名はスペインのマドリード植物園長ガバニレス神父とか。
・語源は「調和・秩序・美麗」、
 また「宇宙」はアメリカのコスモス衛生の語源。


白粉花(オシロイバナ) オシロイバナ科
      作家 与謝野晶子 (選)
オシロイバナ

与謝野晶子も鉄幹と恋に燃えたとき、この花を見て化粧をしたのでしょうか?


オシロイバナは花期が長く、夏の終わりから晩秋まで咲く。
花は夜間性。西洋では「午後四時の花」翌朝には凋む短命花。
原産地は熱帯ペルー。貝原益軒『花譜』に「白粉花」とあり、江戸時代にはかなり普及していたらしい。
・和名「オシロイ」は種子の中に白粉状の胚乳があり、この汁を顔などにつけて遊んだことから。


秋海棠(シュウカイドウ) シュウカイドウ科
      作家 永井荷風 (選)
秋海棠


ベコニア類の1種で日陰地を好む。一見弱弱しいが、生命力はいたって旺盛。
しかしベコニアは熱帯性ですが、秋海棠は耐寒性が強く日本でも越冬できる。
日本への渡来は諸説あるが凡そ340年ほど前か?
中国別名に「断腸花」、永井荷風が最も愛し、自らの帝を「断腸亭」と号す。
ベコニア類の葉は左右非相称で中央の片方が張り出しひずんでいる。
「秋海棠 その葉は何を 片思い」 川柳子
・花言葉も「片思い、不調和、不釣合い」
・英名はエレファントイアー 「像の耳」

葉鶏頭(ハゲイトウ)  ヒユ科
      作家 長谷川時雨 (選)
葉鶏頭

『枕草子』に「かまつか」の名ででており、平安時代に中国から入ったらしい。
日本の風土によく適応して、古くから親しまれたが、今や古典的植物。
・和名は葉の美しい鶏頭。
・漢名は「雁来紅」雁の渡る頃、葉鮮紅色 紅葉花の如し。
・別名「かまつか」は「雁を待ち紅く染まる」が縮まったもの。


菊  キク科
      植物学者 牧野富太郎 (選 )
 
キク
牧野博士はなぜ菊が好きなのか?
中国原産で奈良時代に遣唐使が持ち帰ったといわれる。
江戸時代に盛んに改良し、今日の豪華な花の下地ができた。
中国では薬草として利用され葉花を陰干し、粉末にし「菊酒」にする。
1日に3回猪口一杯の菊酒を
百日続ければ体は爽快
一年服すれば 白髪変じて黒髪となり
二年服すれば 抜けた歯が再び生え
三年服すれば 八十の老人変じて児童になる
   と言われるほど効能は抜群!!・・・皆さんも一度試してみては如何ですか!!
 日本でも酒と菊は切り離せない。
 九月九日菊の節句(朝廷、貴族社会では不良長寿の霊酒を飲んだ)
・江戸時代に作られた花札・・・10月は菊と盃・・しかも役付き
 紋章について
 菊は戦前まで皇室のご紋として尊敬されていた。
 慶応四年鳥羽伏見の戦いで破れ幕府を追討する
有栖川宮の「錦の御旗」が16弁 の菊紋であった。
十六弁八重菊(天皇紋)



これを転機には凋落、が復活した。
明治二年正式に御紋章に制定されたが、戦後は一般人にも解禁された。
錦の御旗




彼岸花(ヒガンバナ) ヒガンバナ科
      歌人 斉藤茂吉 (選)
ヒガンバナ

・お彼岸の前後に決まったように一斉に咲く”季節のカレンダー”
稲田の畦道・路傍・墓地に燃え盛るように咲く・・・日本の安芸の象徴。
・忌み嫌われるーアルカロイドという毒成分で下痢や吐き気



 アカマンマ タデ科   
    俳人 高浜虚子 (選) 
                               

アカマンマ
風が秋を告げる頃、葉の頂に伸びた2~5cmの穂状花序につぶつぶの紅紫色の小花をつける野の草。
「ままごと遊びの一品」






2010年10月9日土曜日

宍戸家の家紋は本当に「六の字」???

今年二月のある日、刈谷市の寺院の墓石家紋収集に夢中になっていたとき、
あるお寺で 次の様な家紋に出会いました。

刈谷市のあるお寺の宍戸家家紋
 当時 ほとんど家紋の知識がなく、紋の名称が分かりませんでした。
そこで図書館に行き「家紋事典」で、州浜紋らしいと目星を付け、
『日本家紋総監』という、分厚い で再確認。
やっと巡り合えた その名は「花州浜」!!!!
花州浜
 ところがその数日後、刈谷美術館で開催された
「江戸時代の刈谷藩」~維新の真の魁・天誅組~
 で 宍戸弥四郎の紹介を見て再度研究心をくすぐられ、
図書館で『宍戸弥四郎略歴譜』を見ていたところ
 以前見た「花州浜の紋」ところがその説明を見ると次のような説明
その説明は
清和源氏 六孫王 経基の末孫であるから「六」の字をもって定紋とする。
と書いてあるではありませんか!
その次に清和天皇からの系譜が書かれていました。

清和天皇ー貞純親王ー経基(六孫王)ー満仲ー・・・・・・・・・・・・

宍戸弥四郎は経基(六孫王)から数えて実に36代目!!
本当に36代も間違えずに辿れるものかな??
と思いつつ、気を取り戻して「六の字」か「花州浜」か 調査することにしました。

まずは姓名から『日本姓氏大辞典(解説編)』、『新苗字事典』共に丹羽基二著では
宍戸氏 常盤国茨城郡宍戸庄発祥の族、八田氏族。
安芸、長門、備中、播磨、美作等の族はその支流。
家紋は「宍戸州浜」
と書かれています。
 「宍戸州浜」 という紋名もあるんだ!

宍戸氏の家紋を史料に基ずいて検証してみました。

中世 『太平記』 州浜紋 史料への初出 「三つ州浜」

    『羽継原合戦記』 小田氏の紋は「足長州浜」
               小田氏は宇都宮氏から分かれた一族で
                    源頼朝に仕えた八田知家を祖とする。

戦国 『関東幕注文』 小田中務小輔「すわま」
          一族の宍戸中務大輔等も「すはま」
      ◆小田氏の場合州浜紋の由来を、源氏の先祖 六孫王経基王の「六」の字を
        紋章化したものと家系伝承に言う。
        これは清和源氏説を粉飾するためのものでわないか?

       ・おそらく初めは宗家の宇都宮氏と同じく「巴紋」であり
        やがて宗家と区別するため巴を州浜に変えたのでは?
       ・因みに 州浜は「巴崩し」ともいわれる。
            丸みを帯びた意匠、使用家の分布が巴紋の分布と重なっている


室町 『見聞諸家紋』 州浜紋の使用家が多く収録されている。
          末町、寺町、茨木、吉田、伊庭、宍戸氏

      小田氏・・小田又次郎知憲 「亀甲に酢漿草と二月文字」
      宍戸氏・・安芸国高田郡住(安芸宍戸氏)「花州浜」
          普通の州浜に比べて意匠が凝っている
より六孫王の六の字を意識したものか?

以上の調査結果より、次のように結論づける。

 宍戸氏の家紋は、もとは普通の「州浜」であったが
           戦国時代以降清和源氏を意識するあまり
           「花州浜」「六の字」
           と意匠・名称が意識的に変更されていった。
尚 各史料の内容を精査しているわけではありませんので、間違いがあるかもしれません。
もしお気づきの点がありましたらコメントください。 

2010年10月7日木曜日

秋の七草と家紋(その1 山上憶良版)

万葉集に山上憶良が詠んだ2首

「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびおり)
            かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」
「萩が花 尾花 葛花 撫子の花 
             女郎花 また 藤袴 朝顔の花」

秀吉・江戸以降今日まで、「花見」と言えば桜と相場は決まっていましたが、

平安の時代には、貴族たちの花見は野に出でて秋に咲く花々を愛でるのが一般的だった様です。

万葉集にもたくさん詠まれている。
萩は141首、尾花は33首、葛は17首、撫子・石竹は26首、女郎花は14首、藤袴は1首、朝顔(今日の桔梗)は5首で
7草まとめると237首にもなります。

 ①萩について マメ科 和名「ハギ」 漢名「胡子花」


「萩」の名前の由来
古株から新芽がつぎつぎ萌え出でる状態の


「生え芽(ぎ)」がハギになった。

「萩」の字は秋咲くので、
草冠に秋と書く和製国字です。

「お萩」は元々は萩と栗を粉にして餅を作っていたそうです。





家紋について

束ね萩

抱き割り萩




②尾花について
 イネ科 和名「ススキ」 漢名「芒」 別名「尾花」


和名の「ススキ」は「すくすく立つ木」→ススキ


別名「尾花」は穂が狐の尾に似るから

十五夜にススキは付き物。
月神の依り代で1本だけ立てるのが正式



抱き芒


雪輪に芒







③葛について
 マメ科 和名「クズ」 漢名「葛」 別名「裏見草」


和名の由来:葛の産地:大和国の国栖(くずか)→クズに転訛

別名の由来:葉の裏が白く、風に翻ると白くちらちら見えるから女の恨み心に掛けている。
「秋風の 吹き裏返す 葛の葉の 恨みても猶恨めしき哉」
『古今集』平 貞文



家紋について
葛の花
使用家は青木氏、西尾氏(丹治氏流)
三つ割り葛の葉
使用家は久下氏、荒木氏(藤原氏流)


④撫子について
 ナデシコ科 和名「ナデシコ」 漢名「瞿麦」 

撫子
和名の由来:「撫ず」は「愛する」の意で、吾が子を撫でてやりたいような可憐な花から。
オランダナデシコはカーネーション。





家紋について

撫子
使用家は斉藤道三
(五弁のきざみが深いものを大和撫子)

石竹
使用家は斉藤氏、井上氏(藤原氏流 )
(五弁のきざみが浅いものは唐撫子
別名「石竹」)


⑤女郎花について
 オミナエシ科 和名「オミナエシ」 漢名「黄花龍芽」 別名「女郎花」

女郎花

和名の由来:
1)細長い茎の頂に粟粒ほどの黄色い花の様・形を上臈花→女郎花
2)オミナメシ(女飯)から女郎花
  一方 男飯→オトコエシ(白い飯は男が食べる)




家紋:無し


⑥藤袴 キク科 和名「フジバカマ」漢名「欄草」 別名「秋欄」

藤袴
和名の由来:花は淡紫色で藤色に似て筒状の花弁が袴に似ることから

万葉集には1首だけ
遣唐使として渡った山上憶良のハイカラ思想が選定の基準になった




家紋:無し



⑦朝顔について
 キキョウ科 和名「キキョウ」 漢名「桔梗」 別名「阿利乃比布岐(蟻の火吹き)」 古名「オカトトキ」


キキョウ
万葉集の朝顔は薬用としての「牽牛子」であり、現在の「朝顔」を遣唐使が持ち帰る以前のもの


古名の由来:岡に咲く神草トトキ即ちキキョウ
   <参考>トキの咲くところ=地名の土岐
別名の由来:「蟻の火吹き」青紫の花に含まれているアントシアニン色素は細胞液が酸性になると赤に変色する。
もし蟻が花を噛んだら蟻酸の作用で赤くなるかもしれない


家紋について

桔梗
水色の土岐桔梗は
明智光秀の紋で有名


植村桔梗
別名「一文字三つ剣」



番外①朝顔  ヒルガオ科
      和名「アサガオ」 漢名「牽牛子」 別名「東雲草」
朝顔

和名の由来:生態が短日性で花が咲くのは「朝だけ」

漢名の由来:王の大病を朝顔の種で治して謝礼として当時財産であった牛を与えられて牽いて帰った<中国の古医書『名医別録』による>

平安遷都の頃、遣唐使がこの種子を牽牛子(薬物)として持ち帰った。


家紋について   朝顔紋を使用した家譜が見当たらないことから、
明治以降に作られたとかんがえられる。
丸に一つ朝顔


竹丸に朝顔







番外②夕顔 和名「アサガオ」 漢名「牽牛子」 別名「東雲草」

夕顔

和名の由来:夏の夕方に開いた白い花が翌日朝には萎んでしまう


夕顔は平安時代に中国から渡来


『枕草子』、『源氏物語』のなかで作品の対象となった


家紋について  下記のほかに 塩谷氏「敗れ車に夕顔」、
              南条氏「夕顔・蔓夕顔の花」がある

丸に夕顔の花
使用家 新庄氏




夕顔桐
使用家不明 『平安紋鑑』












2010年10月6日水曜日

小笠原家と三階菱

  小笠原家について  

『信州・伊豆木の里の小笠原屋敷ものがたり』  久保田安正著 より編集抜粋

 小笠原家は代々弓の名手として知られた家系です。
  中でも7代目定宗は後醍醐天皇に仕えていて、弓馬の秘奥をご覧に入れる機会がありました。
 天皇は貞宗の馬術と弓術をご覧になられて、その妙技に感動され「小笠原は日本の武士の弓馬の技の定めた作法にするがよい」と申され、
正三位(み)の位(くらい) を授かると共に王の字を家紋にする様に仰せられました。


しかし貞宗は、王の字をそのまま家紋にするにはあまりにも恐れ多いということで、
今までの中太の「松皮菱」を下太の「三階菱」に改めて用いることにしたそうです。
松皮菱

三階菱


  小笠原書院と興徳寺のお墓
小笠原書院 清水寺と同じ木組

小笠原書院の鬼瓦 見難いのですが「三階菱」です
興徳寺山門(鐘楼になっています)

小笠原家の「三階菱」