2010年8月22日日曜日

久しぶりのハナモニ参加


先月(7月)のハナモニと8月第1週の保全も都合で参加できませんでした。

今回(8月22日) こんな暑さでも確実に森の中は秋の兆しを感じることができました。

今回はハナモニグループとカメラ交換グループの2グループに分かれた。

私は前半は哺乳類用カメラのフィルム取替えグループに参加

カメラは5台あり、フイルムと電池の交換をします。

その後、最初の1枚はカメラ番号を書いたパネルを持って三人で確認撮影しました。

赤外線センサーで二分弱経過すると、自動でフラッシュ・シャッターが切られます。

前方の杉の木にカメラがあります。
フィルム交換後記念撮影


チョッキリが切り落としたコナラのどんぐりの付いた枝先。

チョッキリも季節を確実に感じているようです。

切り落とされたコナラの枝先


キノコは秋の代表選手の一つ
キノコ類


ワレモコウ
今年のワレモコウは形のよくないのが多く、かなり選別しました。
吾亦紅さん!人間のエゴをおゆるしください。
ワレモコウの花

ワレモコウは奇数羽状複葉ですが、その小葉の形がかわいいので、

確認の為葉だけを撮ろうとした時、はっとシャッターを押す手が止りました。

茎に近い葉だけが茎を抱いているではありませんか!

ワレモコウは毎年見ているつもりでしたが、今回私にとって始めての発見でした。

ワレモコウの葉 第1小葉が茎を抱いている


なんといってもこの森の主人公は「お母さんハナノキ」です。

だんだん風格が出てきました。

お母さんハナノキ

こんな風景も心が和みます。



最後には山本公民館でカキ氷で涼を取り戻しました。

カキ氷 トッピングは練乳、イチゴ、アズキ・・・柔らかい新雪のような肌触り!

兎に角 このカキ氷機にうっとりデス。

2010年8月18日水曜日

小春ちゃんと夏休み

1日目7/30:20:47野田新町駅(刈谷駅と東刈谷の間の駅)に家族で到着

照れ隠しのポーズ
自宅に着くと早速ソファーで飛び跳ね

2日目7/31:紙工作とお絵かきが大好きです。

一人で黙々と・・・・飲み物はカルピスと牛乳・・未だに「カピルス飲みたい!」といってます。

3日目8/1:今日は早朝から前の公園でパパとブランコ・地球儀遊び
その後はおとなしく家の中

修士さんとじゃれてます
4日目8/2:ジジババと3人で 碧南水族館へ
クマノミの帽子を作りました。
クマノミの帽子作り:真剣な眼差し
クマノミキャップ完成

お友達になりました
5日目8/3:箱川へ移動
早めの夕食のあと 花火

ビールを注ぐのが上手くなりました
大人になったら就職に役立つ


花火今年は怖くありません
・自分で振り付けしたダンス「チョコレートディスコ」(動画のため写真なし)
フラフープを使った独特の激しいものです。

6日目8/4:赤沢美林へ
①森林鉄道へ乗車           
待望の列車におおはしゃぎ切符はヒノキ製
折り返し地点で一時停車:オオカメノキが鮮やか

子供広場でがんばってます
小春ちゃんの号令で「カンパイ」
7日目8/5:ヨーヨーのお店    

右の竹竿には自分で書いた宣伝文 部屋に隠れて書いていました

庭のミントとシロツメ草で作ったヘアーリング
8日目8/6:

9日目8/7:お別れの日 中央道経由で上諏訪駅まで

2010年8月17日火曜日

アウトデッキの改修

昨年夏は中央のアウトデッキを張り替えました。
 ゲストルームの前のデッキ材料も用意していましたが、
まだ必要ないと思い、そば小屋の床敷きにしていました。
ところが、ゲストルームのデッキが予想以上に早く腐食したので
急遽改修することにしました。
腐食の原因は雨水に濡れやすいことと、
基礎の角材とデッキ用の間に使っていたスペーサー材が蟻の好む材であったこと。


①小さな蟻に蝕まれたアウトデッキを解体

土台部分が腐食

②防虫防腐ペンキを事前に塗布します。

刈谷で購入した南用材に防腐剤を塗装

③基礎材とデッキと分離するため、石束3基を1列に並べ、保有していた柱材を据える。

コンクリート製の石束3基と手前の角材

 

④完成しました。

完成


⑤雨が降っても流れ落ちるように、外側に傾斜をつけました。

若干傾斜をつけました

カザグルマと家紋(続編)寛政重修諸家譜調べ


8月4日の「カザグルマと家紋」で「家紋百話」に記載されている風車紋の使用家について、

著者の丹羽基二さんが、下記の5氏と非常に少ないと書かれていました。

清和源氏満快流 の片桐氏、平氏清盛流の関氏、藤原氏支流の山崎氏、島氏、

さらに菅原氏流の室氏ぐらい。 以上は『寛政重修諸家譜』に載っている。

そこで本日は図書館へ行って
『寛政重修諸家譜』に「風車紋」がどのように記載されているのか調べてきました。

初日(17日)の調査結果では藤原氏支流の嶋氏と室氏は家譜から探せなかったのですが、

翌日(18日)再度調査した結果、最終巻の二十二巻に載っていました。

しかし関氏はやはり「風車」の紋の記載はありませんでした。
丹羽基二さん何とかしてください。


・先ず清和源氏満快流 の片桐氏について
『寛政重修諸家譜』第六
4家系の内1家系(初め下條を称し、3代の時片桐の改め、河内国交野、河内、大和国の添下三郡を領していた)

使用家紋は「風車」があり、ほかに6紋(「鉄線」、「菱の内鷹割羽」、「白鳥」、「菱の内鷹割羽」、「亀甲の内に花菱」、「三階菱」、「割貝」) があった。

残り3家系は「丸に違い鷹の羽」「亀甲の内花菱」 で「風車」は使用していない。

・次に平氏清盛流の関氏について

『寛政重修諸家譜』第八
2家系あるが、共に使用家紋は「揚げ羽蝶」「撫角」のみで、「風車」は載っていなかった

藤原氏支流の山崎氏について
『寛政重修諸家譜』第十六

山崎氏は6家系の全てが「丸に揚げ羽蝶」「風車(含む八本骨風車)」 の記載があった。
この当時は家紋の名称が統一されていなかったためまちまち。

藤原氏支流の島氏について
巻十四、巻十五、巻十六のいずれにも島氏の記載なし
だだし最終巻二十二(P114)二家系あり
初代秀政の家系の家紋が「風車」があり、他に「左三藤巴」「轡」「万字」
もう一つの家系(初代豊忠)の家系は「風車紋」は無く、「五三桐」「立柏」でした。


菅原氏流の室氏について
巻十七に室氏の記載なし 
だだし最終巻二十二(P114)一家系あり 「風車」「梅鉢」が記載されていた

 残念ながら「風車紋」はおもちゃのそれで、植物の「カザグルマ」ではなそうであった。
八本骨風車
風車



最後に『寛政重修諸家譜』について解説します。

江戸幕府が若年寄堀田正敦を総裁として、寛政11年より14年の歳月を費やして完成したわが国最大の武家系譜集である。

記載されている氏は五十七氏、1114家(同一家名を通算すると5925家)の家譜と家紋名が記載されており、

ここに載っている家紋の種類は255種(使用家により形状が違っており、通算すると2190種)となっている。
ただ『寛政重修諸家譜』には使用氏の家紋名は書かれているが、図は記載されていない。

従って『新訂 寛政重修諸家譜 家紋』には本書の編者である 千鹿野 茂氏 が

採集拓本約2万種の中から選び出して掲載してある。

2010年8月12日木曜日

小春ちゃんとそば打ち

早めの夏休みで遊びに来た孫と一緒にそば打ちをしました。

先回(5月)は遊び半分でふざける事が多かったのですが、

今回は積極的で(3日前からせがまれていた)、手際も非常に良くなっていました。
張り切って「水回し」
笑顔で捏ね捏ね
 
この手つきの良さ!
昼になると暑くなるので、朝食が終わったらすぐ開始。
 
今日の調理方法は「サラダ風」にしました。

通常より太めの麺にしました。

こうやっておくとゆっくり食べても大丈夫です。

お好みの材料を各自好みでトッピング

大根おろし、カイワレ、天カス、スライスハムの短冊、ねぎ

サッパリして噛み応えもあり大好評でした。(自己満足)

この時期はどんなに厳重に保管していてもそばの香りが落ちるので、

目新しい調理方法で誤魔化しました。

信州大町の製粉屋に新そば粉の時期を確認したところ9月末予定でした。




2010年8月11日水曜日

家紋研究の初め

今 家紋研究にはまっています。
と言っても、今年二月ごろからで、全くの初心者です。

ネットで調べてみると、家紋研究家はすごい人ばかりでした。

「自分のルーツ探し」等の人まねでは面白くないと思っていました。

そんな時(ちょうど今年の二月)、「シニア大学の三期生同期会」開催のため「刈谷市史跡巡り」を企画しました。

その下見に付き合ってくれた会社当時の友人(刈谷の旧市街地)と一緒にお寺周りの際、

お寺の隣の 墓石についている家紋が気になり、2人で見て回りました。

その後も一人で墓石の家紋の写真をとり、編集して家紋集の本を作成。

題して「《実録》刈谷市墓石家紋巡り」。

その後も小旅行の際にも墓石の家紋が気になり、ついに「《実録》全国墓石家紋巡り」に発展。

30近くの お寺めぐり、3県、12市町村、家紋の種類も403個となりました。

印刷するとA4で39ページとなっています。


月別にプリントアウトして小冊子様に閉じてあり、「2月号」から始まり現在「7月号」。

しかしデジカメ写真(1画像勿論50k以下にサイズダウンしています)を使用しているため、


40MB(現在5分割管理)になり、おんぼろパソコンでは負荷が大きすぎてこの程度で一時収集を中断しようかと考えています。

一般的な家紋はどこの県に行ってもいっしょですが、地方により特徴的なものもあり興味深いです。

これからは「テーマ別」に編集してブログ公開していくつもりです。

ご希望のテーマがあれば提案ください。

2010年8月10日火曜日

夏の花 百日草

ヒャクニチソウ
庭の畑にひゃくにちそうが咲いています。

花が少なくなるこの時期に、

手間がかからず次々に花が咲いてくれるので

毎年苗を買ってきて植えています。

暑い日差しの下で丈夫に咲き続けるため、

この名前がついているようです。

図鑑によるとキク科で 学名は

Zinnia (ヒャクニチソウ属)
elegans(優雅な、風雅な、上品な)

属名の Zinnia は18世紀のドイツ植物学者「Zinnさん」の名前に因む。

花言葉は「 別れた友への思い 高貴な心.」


ヒャクニチソウと同じように花期が夏でしかも名前が似ている花を並べてみると

・日々草 (別名:ニチニチカ) キョウチクトウ科 一夏中次々に花を咲かせ続ける。
日々草

・百日紅 サルスベリ  ミソハギ科 夏を代表する花で木の幹は文字通りツルツルしている。

百日紅
 
・千日紅(別名:センニチソウ) ヒユ科 夏の間の仏前や墓に供える花としてよく使われる。
千日紅

赤沢美林でアスヒカズラ発見

アスヒカズラとヒカゲノカズラ
2010年8月6日夏休み中の孫(四歳の女の子)を連れて赤沢美林へ行きました。

森林鉄道で楽しんだ後、子供広場への入口でアスヒカズラを見つけました。

飯田市箱川の老人福祉センター北側法面と同様にヒカゲノカズラと一緒に生えていました。

近くの標識板に「標高1098m」とかかれており、はなのき友の会会長さんに教わった通りかなり高

度が高いとことに自生していることに納得。

やはり飯田市の標高600mは稀なケースのようです。

お盆休みのそば打ち体験

 根羽村のネバーランドでお盆期間中に特別「そば打ち体験」が出来ます。

そば打ち愛好会のメンバーが懇切丁寧に指導します。

やはり自分で打ったそばが一番美味しいですよ!

因みに 私の担当日は8月13日で10時から15時ごろまで対応します。


料金:3150円(1鉢:5人分)

・開催期間 2010年8月12日から8月15日まで

・アクセス ー 153号線を豊田から飯田に向う途中の根羽村最北端にネバーランドがあります。
- 道の駅 ひまわりの手前

尚 毎月第2日曜日、第4日曜日もそば打ち体験が出来ます。

 但し特別イベントがあるときはできません。

因みに9月の第2第4日曜日は終日予約となっており、対応できません。

2010年8月9日月曜日

イカルを見た!!

イカル 写真はネットから拝借




夜中降った雨も小休止の7:20、水晶山を眺めながら朝食をとっていると、

突然蕎麦小屋の傍の桜の木の頂上に、白い体に黒い頭、黄色い太い嘴、

実物を見たのは初めてですが、特徴があるのですぐに「イカル」とわかりました。

残念ながら鳴き声を聞くことは出来ませんでしたが、

さっそく図鑑を見ると「キィーコーキー」、「キョコ、キー」(明るく口笛を吹くような声で鳴く)

と書いてありました。

そういえば2,3日前から今まで聴いたことの無い小鳥の鳴き声を聞いていたが、

どうも「イカル」だったようです。

6月末には「アカショウビン」の声を初めて聞きましたが、こちらは「声はすれども姿は見えず」。

2010年8月4日水曜日

カザグルマと家紋

普通日本で「風車」といえば、子供の頃色紙やセルロイドを折って棒につけて回した覚えがあります。
しかしヨーロッパでは実用性のある動力源としての風車(特にオランダで有名)を多く見かけます。
オランダの風車
実用性の面から言えば日本では水車でしょうか?

さて紋章・家紋の面からみると、丹羽基二氏は「家紋百話」の著書の中で

植物の「カザグルマ」は牧野富太郎博士によると、テッセンと同様に中国から伝来し、

花弁様の萼片の数はテッセンは六片、カザグルマは八片と述べています。

後日談として研究熱心な氏は「テッセン」として植木屋から苗を買ってきて

自分の庭に植えて観察したところ、同一株に萼片が6,7,8片の花が咲いたそうです。

 氏はこのことを松田修先生に電話で聞いたところ、

「カザグルマの自然交配の雑種であろう。やはりテッセンは六片、カザグルマは八片です。」

の回答だったそうです。
 

実際私が飯田市のハナノキ自生地で見たカザグルマもやはり萼片は八枚でした。
ハナノキ自生地の「カザグルマ」萼片は8枚

紋章上の「風車」はテッセン六弁、カザグルマ八弁のどちらも”鉄線紋”と呼んでおり、

風車紋の使用家は非常に稀できわめて少ないそうです。

清和源氏満快流 の片桐氏、平氏清盛流も関氏、藤原氏支流の山崎氏、島氏、

さらに菅原氏流の室氏ぐらい。

(以上は『寛政重修諸家譜』に載っているそうです。近い内に図書館へ行って確認してくる予定です)


一方家紋では「カザグルマ」は一般には見当たらず、「鉄線」が一般的です。
犬山市専念寺 「丸に鉄線」

カザグルマ、テッセン:カタカナは植物の標準和名をしめす。
風車、鉄線:漢字は一般的な名称をしめす。

越前浜の歴史

滅亡した越前の名族の末裔が、越後越前浜に生き続け、その霊が子孫を守る・・・

歴史家 山下克典氏と山下卯三郎二代による調査結果を詩にまとめたもの
「歴史と旅増刊号」 秋田書店 平成三年 より抜粋

「越前浜の歴史」
・織田の火責めに、城落ちて
主君の義景、果てた後
命に代えて、与三左衛門
愛王丸の、ともをする

・百姓姿に、身をやつし
小舟に主従、二八
涙も頬に、三里浜
落ちゆく月の、能登の海

・世が世であれば、若君と
裃姿で、仕えるに
越後の国の、蒲原で
鍬を持つ手の、男なき

・国に残せし、菩提寺を
憶うて建てる、西遊寺
御堂の甍、風強く
再起の悲願、道遠し

・一乗谷の、城偲び
萬感胸に、植えた松
一本松と、人は呼ぶ
四百年の、武者の夢

朝倉義景の愛児「愛王丸」

朝倉義景の一家臣が自分の子供を身代わりにして、義景の愛児「愛王丸」を守り通した話に感激の涙した話です。
戦国時代、朝倉義景と近江の浅井長政が組んで、姉川の合戦で奮戦するも背走、ついに一乗谷の合戦を最後に朝倉軍は全滅した。
・・・ここまでの歴史は皆さんもご承知のことと思いますが、ここからがなかされる所です。
当時の歴史では朝倉家一門一党は全員死に絶えた事になっていますが、
それは世を欺くためであって、当時四歳の義景の実子「愛王丸」だけが生き残っていた。
この史実を村の歴史家である山下氏が親子で20年にわたり調べ上げた結果を「越前浜の歴史」という哀歌を、哀愁を帯びた七五調の名調子で詩に纏め上げています。
その一節「主君の義景果てた後、命に代えて与左衛門、愛王丸のともをする」のくだり
・・・このあたりから涙腺が緩みっ放しで字が霞む・・・
落城の日、義景は自刃、一族は焼死したことになっているが、実は義景の家臣 小川与三左衛門が同じ年頃の吾が子を愛王丸と称して敵の前に連れ出し、「朝倉義景の愛児愛王丸であるぞ!」と燃え盛る紅蓮の炎の中へ入れ、焼き殺したのであった。
朝倉一族はこれにて滅亡し、信長に対して弓を引くことなく愛王丸をひそかに隠し、越前国三里浜から28人衆が小舟に乗り、流れ着いた所が佐渡島の対岸約40キロの角田山の麓の砂浜であった。
(中略)
この地で愛王丸は家臣に守られ、寺の住職になり、現在19代目の住職まで代々名族の霊を守っているそうです。
「越前浜の歴史」は後日アップします。

白鵬の家紋「丸に三つ鱗」

家紋「丸に三つ鱗」

昨日天皇陛下からねぎらいの言葉を頂いた白鵬が正装で記者会見していました。
その紋所が「丸に三つ鱗」。
なぜ白鵬の家紋が「三つ鱗」なのか? 相撲取りの場合普通 部屋の親方の家紋(白鵬の場合宮城野部屋という古い歴史のある部屋なので)ではないかと調べてみましたがどうもそうではなさそうです。
ではなぜこの家紋をつけているのでしょうか?
自分ではわからないのでネットで「一気新聞」の記事の一部を採用させていただきます。
他の参考文献高橋賢一編「続大名家の系譜と家紋」 。
★そもそも「鱗紋」の伝説
北条時政が子孫の繁栄を祈願して、相州江ノ島弁才天に参篭した。ちょうど満月の夜、時政の座前に現れた柳裏・緋の袴の女房(女官)姿の女性が、たちまち伏し長け20丈もある大蛇に変じて、海中に姿を消した。「その跡を見るに大いなる鱗を三つ落とせリ。時政所願成就しぬと喜んで、即ちかの鱗を取って、旗の紋にぞ押したりける。今の三つ鱗の紋これなり。」(太平記)
★モンゴル出身の横綱・白鵬「三つ鱗」紋のわけ
その1)
今から700年前の元寇を迎え撃った北条時宗と同紋というのは、これいかに。
横綱になったことで、日本を制圧したことの印として元寇の復讐を果し、念願の相手の大将の家紋を奪い取ったということなのだろうか。
 その2)
あるいは、この三つ鱗を身に付けることによって、日本の味方になり、もう一人の横綱・朝青龍を迎え撃つ覚悟の印として三つ鱗を採用したということなのか。
いずれにしても、興味深い。
◆蛇足:「三つ鱗」有名人
山県有朋、川端康成、高倉健

2010年8月3日火曜日

マツモトセンノウ・・・植物名の由来

<出典>「植物名の由来」から抜粋
ナデシコ科のマツモトセンノウは1875年「新訂草本図説」に信州松本に自生していたとの記録。
1919年牧野富太郎曰く ①松本でなく支那から渡来 ②松本幸四郎の紋所に似る。
(②の説は他の図鑑、ネット上でも同様の記述あり)
しかし②の説は誤りと言わざるを得ません。
松本幸四郎の紋「四つ花菱」
photo
ナデシコ科マツモトセンノウの花
根拠として 松本幸四郎が生れる以前にマツモトセンノウはありました。

わが国最初の園芸書「花壇綱目」1681年(延宝9年)に記載されているとのことです。

松本幸四郎の家紋は「四つ花菱」別名「柳澤花菱」ですが、初代1674年下総生れ、1714年に幸四郎に改名、以降代々幸四郎襲名し、七代目は「勧進帳」の弁慶で有名。
1820年の古川柳に「高麗べりは花菱のように見え」これは時代から5代目幸四郎の代のもの。
四花菱をの紋を幸四郎の屋号”高麗屋”に掛け、畳の高麗縁にたとえたもの。

2010年8月2日月曜日

ヒメコウゾの実

7月24日午前6時
②この実をつまもうとすると、表面の皮 が薄くてすぐに中の液が浸出して指がベトベトになりました。食べる と、甘味が比較的濃く、けっこうおいしい。でも、酸味がほとんどないた め、印象に欠けます。
①ハナモニコースの入口(道路沿い)にヒメコウゾの木に赤い実がいっぱいついていました。誰も取らないので地面に落ちています。                                                                   丸い実(集合果)は桑の実を丸くしたような姿です。色は明るい赤色(赤橙色)で、透明 感が少しあります。
③カメムシの仲間 : ヒメコウゾの実に小さな虫がいました。専門家に写真を見せて聞いたところ、イチモンジカメムシの幼虫(5齢ぐらい)ではないか?とのことでした。自分で図鑑を見ると胸部の模様からチャバネアオカメムシではないか?と思いましたがよくわかりません。従って専門家の言う「カメムシの仲間」としておきます。
④ヒメコウゾの実の瓶詰め ホワイトリカーに漬けてピンクの果実酒を造ろうと考えましたが、ホワイトリカーがなくありあわせの焼酎の小瓶に直接入れました。今度飲むときが楽しみです。

2010年8月1日日曜日

カワラヒワ


2010年6月6日

散歩中カワラヒワの赤ちゃんが松の小枝に止りじっとしていました。
数分見つめ合っていましたが、飛び立つことも出来ずこまっている様子。
つぶらな瞳があどけない。
これ以上見ているのもかわいそうなのでそっとその場を離れ、

その数時間後 赤ちゃんが気になりましたがやはりそのままにしておくことにしました。