2010年8月4日水曜日

朝倉義景の愛児「愛王丸」

朝倉義景の一家臣が自分の子供を身代わりにして、義景の愛児「愛王丸」を守り通した話に感激の涙した話です。
戦国時代、朝倉義景と近江の浅井長政が組んで、姉川の合戦で奮戦するも背走、ついに一乗谷の合戦を最後に朝倉軍は全滅した。
・・・ここまでの歴史は皆さんもご承知のことと思いますが、ここからがなかされる所です。
当時の歴史では朝倉家一門一党は全員死に絶えた事になっていますが、
それは世を欺くためであって、当時四歳の義景の実子「愛王丸」だけが生き残っていた。
この史実を村の歴史家である山下氏が親子で20年にわたり調べ上げた結果を「越前浜の歴史」という哀歌を、哀愁を帯びた七五調の名調子で詩に纏め上げています。
その一節「主君の義景果てた後、命に代えて与左衛門、愛王丸のともをする」のくだり
・・・このあたりから涙腺が緩みっ放しで字が霞む・・・
落城の日、義景は自刃、一族は焼死したことになっているが、実は義景の家臣 小川与三左衛門が同じ年頃の吾が子を愛王丸と称して敵の前に連れ出し、「朝倉義景の愛児愛王丸であるぞ!」と燃え盛る紅蓮の炎の中へ入れ、焼き殺したのであった。
朝倉一族はこれにて滅亡し、信長に対して弓を引くことなく愛王丸をひそかに隠し、越前国三里浜から28人衆が小舟に乗り、流れ着いた所が佐渡島の対岸約40キロの角田山の麓の砂浜であった。
(中略)
この地で愛王丸は家臣に守られ、寺の住職になり、現在19代目の住職まで代々名族の霊を守っているそうです。
「越前浜の歴史」は後日アップします。

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