2010年11月27日土曜日

妻籠宿の江戸時代風俗絵巻行列

江戸時代の宿場町の姿を色濃く残している町並みを保存する運動
が全国に先駆けて起こり
、これを契機に「文化文政風俗絵巻行列」をはじめたそうです。

11月23日の「勤労感謝の日」に毎年行われていることは以前から知っていましたが、今年初めて来る事ができました。

前日の大雨から一転好天に恵まれ、長閑な江戸の町並みを体感できました。

行列の先頭

賑やかに笛と太鼓

なかなか様になっています

雰囲気が出ています

なんといっても一番人気! 花嫁さん でも歳が気になります

「枡形」では木曽馬から降りて

この家では椅子に座り フラッシュの嵐

一風変った吊るし柿  皮を剥かないで熟し柿の様です

広場の前では三河万歳

この子も可愛かったです

2010年11月25日木曜日

立つ鳥後を濁す?

朝食後、アウトデッキに出ようとガラス戸を開けようとしたところ、
足元にいつの間にか小鳥が!!


  シジュウカラ ではありませんか。

右足を よく見るとちょっと変です。骨折でもしたのかなー?

 時々小首をかしげているので命には別状無いようです。

しばらく事態の様子を見守ることにしました。

ガラス戸を閉めて数十センチの距離でお見合い

足が折れ曲がって見える
 このような事態になる時は、小鳥が窓ガラスに激突して、

脳震盪を起こすことが考えられますが、その音を聞いていません。


10分ぐらい経ったでしょうか、
急に両足で立ち上がり、しばらくして オシッコ
 
その後 元気よく飛び立って行きました。

 その後にお土産

『立つ鳥は 後を濁す』

2010年11月15日月曜日

ハートマークの紅葉

 


今年も大きなハートマークが出現しました。

右肩が少し崩れていましたが、これはご愛嬌!

場所は153号線を飯田方面に上って行くと、根羽村の役場を過ぎたあたりです。

2010年11月13日土曜日

薬師如来の守り神 十二神将の謎 その2

その1では あさみさんから貴重な意見頂き、新しい発見もありましたが、
また余計分からなくなった部分も出てきました。

そこで今まで経緯と整理・・出典を明確にしながら整理してみました。

でも結論から申しますと、いろんな説があって「混沌の世界」で自分的に納得できる証拠を見つけることができませんでした。
 従って、今回はここで一休みとさせていただきます。
また新しい情報があれば更新することとします。


<そもそもの疑問の発端は> 
山岡荘八「徳川家康」第1巻P103に書かれている内容で、
於大が侍女の百合に対して、「鳳来寺の薬師さんから、これから生れてくる子(竹千代:後の家康)の寅年守り神である普賢菩薩 真達羅大将の像を盗んできなさい」と命令します。

そこで ネットで
「十二神将像(仏像事典)」 http://www.butsuzou.com/jiten/12sinsyo.htm
 で調べたところ、寅年の守り神は迷企羅大将となっており、真達羅大将は酉年の守り神になっているではありませんか?

参考までに調べた結果

 『徳川家康』での鳳来寺記述内容 ()内干支は推定   仏像事典   

於大  亥年生まれ 宮毘羅大将(くびら) 弥勒菩薩    子年
    (戌年生まれ) 伐折羅大将(ばさら)             丑年
    (酉年生まれ)  企羅大将(めきら)           
    (申年生まれ) 安底羅大将(あんてら)          卯年

    (未年生まれ) 額爾羅大将(あにら)            辰年
百 合 午年生まれ 珊底羅大将(さんてら) 虚空蔵菩薩  巳年 
    (巳年生まれ) 因達羅大将(いんだら)・          午年  
    (辰年生まれ) 波夷羅大将(はいら)・・          未年 
    (卯年生まれ) 摩虎羅大将(まこら)・           申年 
竹千代 寅年生まれ 真達羅大将(しんだら)普賢菩薩    酉年
    (丑年生まれ) 招杜羅大将(しょうとら)          戌年
    (子年生まれ)  毘羯羅大将(びから)・          亥年 




『徳川家康』と異なる。この疑問を解決できずに悶々としていた。
十二神将を逆から数えればいいのだが・・・まあいいか。
しかし何でお寺によって正順・逆順があるのだろう?
まさか山岡荘八が間違えることは無いと思うし・・・・

という疑問が 常に頭の隅にあり、三年が経過しました。

<疑問解決の足がかり>
三年後の今年の10月2日、勝沼市へぶどう狩りに行った帰り道、「ぶどう寺」の謂れがある行基開創の「大善寺」に立ち寄りました。国宝薬師堂に入ると厨子三尊の両脇に十二神将が並んでいるではありませんか!
チャンスと思い住職に例の「徳川家康」の疑問を投げかけたところ、
「十二神将と干支守り本尊の関係はその寺の経典で決まっています」との回答でした。
 根が単純な私は早速自宅に帰り、今までの経過をブログに掲載しました。


<新たな情報>
ブログをみた、前出あさみさんから早速メールをいただきました。
十二神将と干支守り本尊の関係はいろいろな情報を頂きましたが、最終的に

「日本のお寺における十二神将と十二支の関係については、
各お寺の経典・言い伝え由来ではなくて、 十二神将と十二支の関係について書かれた書物によるものです。」

とのことでした。

<チャンと調べよう>
そこでもう少し専門的に調査し直そうと、図書館の書士さんにお願いして関連書物を検索・取り出していただき調べました。



1)先ず十二神将と十二支の現状と歴史について
     ・・「謎を秘めた仏たち」より抜粋・・
<現状>
 ①十二神将を安置する寺では、神将が頭に十二支の動物を頂くことから、人々の生れた歳の干支と十二神将を結びつけて、十二神将をそのまま人の生れ歳の守り本尊として説明している。
一般に十二神将は前述<そもそもの疑問・・・・>に記述したように呼んでいるが、
図像・彫刻の上でもその尊名と形姿が一致することがほとんどなく、混乱を招いている。

②十二神将は、薬師如来の本願を守護する12人の薬叉神将で、彫刻の上でも製作されているが、その姿・形・持ち物などが各々異なり、尊名の確定が非常に難しい。

③この混乱は、依経する「薬師経」が尊名だけを記し、姿、形を説明しないことによる。
これは平安時代後半になって、神将の頭上に十二支を頂くことからも一定せず、十二神将の尊名を一層分かりにくいものとしている。

④因みに奈良・新薬師寺、京都・広隆寺十二神将像の彫刻は、十二支をつけていない。頭上に十二支を頂く古い例は、平安時代後期の製作と見られる淡路島東山寺像である。

<歴史>
①わが国で十二神将を説明した、最も古いと考えられる経典は、平安時代中頃に伝来したという、天台系の「浄瑠璃浄土標」であるが、これには寅から丑まで、十二獣に跨る武装の十二神将を説明しており、その像容は彫刻上の十二神将と大きく異なっている。

②また十二神将は、彫刻や絵画の上では、武将の姿が普通である。
しかし鎌倉時代の有名な図像集である「覚禅抄」は、平服を纏った獣頭人身の立像を描いており、これは本来十二支神将と呼ぶべきであろう。

十二支と仏教上の十二の獣の結付きとをうかがわせる仏教経典に、五世紀の中国北涼時代に曇無讖(どんむしん)が訳した「大方等大集経」がある。
この中には仏教上の十二支獣も、十二支と同様に東西南北に配置されるが、これは中国に伝来した経典が、陰陽道の十二支を取入れつつ完成したのではないかと考える。

④そして十二支と十二支獣が結び付き、形となって彫刻化され、これが一つの思想にまで高められたのが、韓国新羅(4~9世紀)の頃ではなかろうか。

韓国慶州地方に仏教と十二支獣の関係がより明確になった。

⑤こうした思想が日本に伝わり、早くから伝来していた現世利益の仏である薬師如来と結びつき、平安時代の中期以降には、陰陽の思想とも結びつきを深め、頭上に十二支を頂く十二神将が生れる一因となったと考えられる。

2)経典との関係
①②の最初につまずいた資料
③以降は刈谷中央図書館へ行って書士の方に協力を頂いた文献とネット資料を対比。

①「徳川家康」山岡荘八著(講談社)
・鳳来寺 高野山真言宗
十二支の順は亥、戌、酉の

②十二神将像(仏像事典)
http://www.butsuzou.com/jiten/12sinsyo.html
・経典「薬師瑠璃光如来本願功徳経」
・十二神将子、丑、寅の順


③仏像図鑑 上 国書刊行会 国訳秘密儀軌編纂局
種種の仏像について写真・図・解説を詳細に書かれている。
十二神将については、薬師本願功徳経に書いてある薬師如来の本誓(ほんぜい)である守護神の成立(じょうりゅう)、すなわち8万4千の煩悩を転じて菩提を得しむる。
・十二神将の名称は出典により異なり、陀羅尼集経、妙見菩薩神呪経、薬師観行儀軌の3経について十二支、本地と対比表を載せてある。
・十二支の順は亥、戌、酉の順  

④奈良・新薬師寺・・・写真集
・新薬師寺の建物・仏像の写真
子、丑、寅の順

⑤謎を秘めた仏たち 川尻祐治 戒長寺 十二神将が護る寺
          http://www.bunkaken.net/index.files/nazo06.html
・前項に十二神将と十二支の関係の現状・歴史を抜粋記載。  
・一般例として・・子、丑、寅の順

⑥十二神将 http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/12shinsyou.html
・「覚禅抄」に書かれている、「一行阿闍梨詮集」の説
十二支の順は亥、戌、酉の

⑦総合佛教大辞典下 法蔵館 総合佛教大辞典編集委員会


⑧仏教美術事典 中村元、久野健監修 東京書籍㈱
・「薬師経」の十二神将名称を例示し、一般に姿形や持物、十二支との対比関係には諸例みられる。

⑨yahoo智慧袋「十二神将はなぜお寺によって違うのでしょうか?」
まず一番に単純明快な解説はyahoo智慧袋「十二神将はなぜお寺によって違うのでしょうか?」
のベストアンサーより
・もともと十干十二支と言うのは、中国の陰陽五行説を元に、日本の「陰陽道」が制定したものです。
「卯」生まれというのも、「陰陽道」の思想です。仏教とは関係ありません。
一方、「薬師如来十二神将」は、仏教の教えによるものです。
そもそも思想基盤が違うのです。
ところが、「陰陽道」の「式盤(ちょうばん)」に表される、十二方位の神「十二天」と「薬師如来十二神将」が混同してしまい、当の新薬師寺でも、十二神将の名前に混乱が起きていました。

この混乱は、依経する「薬師経」が尊名だけを記し、姿・形・を説明しないことにもよる。
これは平安時代後半になって、神将の頭上に十二支を頂く形となってからも一定せず、十二神将の尊名を一層分かりにくいもととしている。
・・・(中略)
わが国で十二神将を説明した、最も古いと考えられる経典は、平安時代中頃に伝来したという、天台系の「浄瑠璃浄土標」であるが、これは寅から丑まで、十二支獣に跨る武装の十二神将を説明しており、その像容は彫刻上の十二神将とは大きく異なっている。
また十二神将は、彫刻や絵画の上では、武将の姿が普通である。しかし鎌倉時代の有名な図像集である「覚禅抄」は、平服を纏った獣頭人身の立像を描いており、これは本来十二支神と言うべきであろう。
  ・・・(後略)


参考までに
「覚禅抄」について・・・・・④仏教美術事典より
真言宗小野流の京都・勧修寺出身の覚禅によって編集された密教図像集。
諸 経法・諸尊法から灌頂・後七日など修法について約120巻にわたって、次第と図像を、儀軌・経軌・古記録・口伝とともに集大成されており「百巻抄」とも言 う。基本的には勧修寺の密教図像を継承しているが、勧修寺・醍醐寺の小野流に限らず、京都・仁和寺の広沢流にも通じ、時には天台宗の次第・口伝も記されて いる。
わが国最大の仏教図像の百科全書として現在に至る。


以上のように
かなりの労力を使って情報収集したが、解決には至らなかった。




 出典:「十二神将像(仏像事典)」 http://www.butsuzou.com/jiten/12sinsyo.html
元々は 十二神将はそれぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率いて薬師如来を信仰するものを守る武神。
経典:「薬師瑠璃光如来本願功徳経」に薬師如来の名号を唱える者を守護すると約束されている。
因みに経典の種類は訳者により四種類ある。
「薬師瑠璃光如来本願功徳経」 唐の玄奘訳
「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」 唐の義浄訳
「潅頂経薬師瑠璃光経」大正蔵
「薬師如来本願功徳経」大正蔵

・2010.10.2山梨県勝沼へぶどう狩りに行き、帰路「大善寺」の薬師堂で上記疑問を住職に尋ねたところ、「それは経典により異なる」と教えてくれた。
これですっきりしたので自信を持って自分のブログに載せました。


ところが読者の方から 
「日本のお寺における十二神将と十二支の関係については、各お寺の言い伝えによるのではなくて、 十二神将と十二支の関係について書かれた書物によるものです』
経典由来ではなく経典から考えられた副教材みたいなものが存在し「十二神将と十二支の関係」が色々書かれているのでしょうね。」
とのコメントを頂いた。上記の「副読本みたいなもの」とは、多分「覚禅抄」(抄の字は正式には金偏ですが変換文字が無いので手偏を使用)をさすのではないでしょうか?

従って経典由来説(大善寺の住職)と「覚禅抄」由来説  どちらが正しいのでしょうか?


やはり、勝沼市の「大善寺」の住職説である 経典説を信じたくなってきた。
 ・・この経典由来説は上記文献について比較検討(エクセルで対比表を作成したがここにアップする術がわからず)した結果どうも誤りのようです。
ただ「覚禅抄」においてこの記述が発見できればいいのだが・・・・

2010年11月11日木曜日

紅葉を楽しむ・・高鳥屋山登山

飯田山本に通い始めて15年以上になるのに、高鳥屋山の名前は聞くだけで登ったことがありませんでした。
たまたま数日前に「はなのき友の会」代表の北沢さんから、高鳥屋山登山「紅葉巡り」イベントがあることを聞き参加することにしました。
でも最近登っている山は200~500mそれも実際登るのは登山標高差はせいぜい200mぐらい。
高鳥屋山は1398m、登山標高差900m!!!

皆について行けるかなー?心配半分、楽しさ半分。

集合日時:2010.11.7(日)8:45
主   催:伊那谷自然友の会(飯田美博)
講   師:北沢あさ子氏
参加者:14名
行程:山本公民館ー青木集落ー梨子野峠(小休憩)ー梨子野山ー高鳥屋山(昼食)・・の往復


飯田美博から来た方が少し遅れたこと、説明・挨拶で戸惑ったことなどで出発時間が遅れたので青木集落まで車で移動することにしました。(これで1時間ほど時間短縮)
講師は三日前下見したうえ、紅葉した落ち葉をスケッチブックに現物を貼り、実にきれいに整理されていました。

青木集落は三軒あるが現在すんでいるのは1軒だけ!
駐車場には「微振動観測所」「蚕玉大神碑や33観音石碑」がありました。
また10年前は棚田もあったそうです。

・・リニアー新幹線がこの辺を通るのを予測したかな?
微振動観測所

・この地区ではユウスゲの群生、女郎花、コオニユリが見えるそうです。
来年は花の咲く頃に是非訪れてみたい。

いよいよ出発!!青木集落駐車場


蚕玉大神石碑
・途中アオツツラフジの緑色の実がなっており、参加者の一人(美濃加茂市の方)から果皮を剥がすと「ミニアンモナイト」 のように見えることを教えられた。

・しばらく行くと熊棚発見 子の木はヤマザクラでしたが他にコナラの木二本に熊棚を発見。
熊が盛んに活動様子が伺えた。
中央の黒く見えるところ  意外と細い枝でした


・左に阿智の紅葉した山々を眺めながらしばらく行くと目の前にブナの大木
ブナの大木  紅葉が実にすばらしい
 ・二時間ぐらいで梨子野峠に到着。東屋があり小休憩
前方が東屋、右折すると下清内路に降りる道

東屋 御岳山の遥拝所として建てられたみたいです

北に冠雪した御岳山が見えます(左右の山の谷間)
 ・ここから稜線縦走、アップダウンがかなり厳しいところもありました。
シロモジ、タムシバ、サンカクズル、クロモジの群生




・最後の坂道は若かりし頃登った富士山9合目から頂上を目指したときと同様に行き絶え絶えでした。時間は既に1時近くになっていましたのですぐ昼食。
 頂上にはナツハゼの黒い実が実っていました。食べてみるとちょっとすっぱい味。

ナツハゼの実

・山小屋
山小屋

頂上からの眺めは最高でした


・昼食後全員記念撮影の後下山開始
事務局から配給されればここに写真を添付予定。



・青木集落には4時半頃到着。車で山本公民館まで向い、挨拶解散。

<今日の総括>
歩行距離12k、歩数 2万歩強、 行動時間は6時間
帰宅後即近く 温泉”満願成就の湯”に行きしっかりとマッサージしました。
お陰で翌日も足の痛みが全くありませんでした。

卵を繫ぎに使ったそば その2

 先週打った卵繫ぎそばの味利きできなかったのと、
 加水オーバーであったため、適正加水率を確認するため再度トライ。

 先回との比較
<先回10/29>       <今回 11/3>
場  所     刈谷            飯田
室  温     18度           15度      

そば粉      300g          300g 
卵 1個      70g           53g  
豆腐 1/4丁   75g           99g      
水        50g           36g
評価     かなり加水オーバー    調度良い


 従って第一の目的の単純加水率(水だけ考えた場合)は
先回     16.7%    今回  12.0%  
ということになるが、卵にも豆腐にも多少水分があるのでこの辺の効果も考慮してみよう。

その前にこの粉(倉科製粉、スーパー安曇野)の
加水率は、生粉打ち(10割)の場合 47%、二八の場合44%であったので


先回の加水オーバー量は感覚的に5gぐらい(50-5=45g)5%の感じであったので、

上記の生粉打ち加水率と先回の適正加水率(推定値であるが)を参考に
卵と豆腐の含水率(Xとする)を計算してみることにする。
そば粉300gについて
生粉打ち適正加水量=(卵重量+豆腐重量)×(含水率)+加水重量

 先回 300×0.45  = ( 70 + 75 )  x  X1   +    45    
135=145X1+45
90=145X1
X1=62.1%

今回   300×0.45  = ( 53 + 99 )  x  X2   +   36  
135=152X2+36
        99=152X2
X2=65.1%
以上より
卵と豆腐の”見かけ水分率は62.1%から65.1%となった。
但し水分率は圧倒的に豆腐のほうが多いと思われるが・・・・

取敢えず今回はここまでとする。

2010年11月1日月曜日

葵紋その2・・御三家の家紋

よく図書館でお会いする、刈谷市の郷土史の研究科の方より、
「水戸黄門の格さんが出す印籠の御紋は、水戸家のものではない
水戸家の家紋は三つ葵でも三つとも裏葉のはず。」
との話があったが、私は自信がなかったので調べて回答することにした。

まずインターネットで情報を得たが、原本での確認が必要と思い
沼田頼輔『紋章学』を調べると(葵紋)の項に御三家の家紋についての記述があった。
更にその元は天野信景(さだかげ)著の随筆『塩尻』とあった。
天野信景と言う人は江戸時代尾張藩の国学者となっているが多岐にわたる知識人(暇もあったみたい)で、特に随筆『塩尻』は全千巻あり、現存するのは150巻あり、『日本随筆大成』の13巻から16巻に納められているらしい。この情報を元に図書館の司書の方に依頼すると、驚いたことに第一期、第二期、第三期の三種類あることが分かり、目次を見ると第三期が該当。従って第三期の13巻から16巻の提示を頂き読む事にした。
前置きが長くなりましたが、『紋章学』『塩尻』の該当部分を記述し検討に入ることにします。
尚不明部分(アンダーライン)には私見を注釈した。

徳川氏が葵紋を独占し、一門親藩のみにこれを用いさせたことから、本末を区別するために、葵紋もまた種類を増し、六葉葵・花葵・蔓葵・寄葵などの別が生じるようになった。
その他一門の中で用いる葵紋にも、たとえば表裏の別、蕊すなわち葉脈(*1)の多少などによって、その別を設けるようになった。
『塩尻』七一にはこれに関して左の記述がある。
敬公(*2)の御時にや、ご紋のすがた大樹(*3)と同じさまなれば
、・・(中略)
尾張家は葵の表葉二ッ裏一ッ、紀伊殿は表葉一ッ裏二ッ、水戸殿は3ツながら裏葉を附べきよし仰を蒙り故に、命のままつけ侍る。
・・・(後略)

上の記述によると、葵紋に表裏の別を設けたのは家康のときであったようであるが、『武鑑』その他諸大名の家紋を記したものを見ると、 
この別が厳然と行われたと言うことはないようである。

しかし後世になって、調度の器具などには(*4)、しばしばその別を示したものがある。

   以上が『紋章学』葵紋についての記述です。
これに注記解説を加えると
*1)蕊と葉脈は全く別物で間違いと思われる。植物図鑑等の解説より、蕊とは植物のオシベ、メシベという生殖器をさし、葉脈とは葉身の中を通っている維管束で水分・養分の通り道。

*2)敬公とは尾張徳川家祖である義直(家康の9男)
*3)大樹とは徳川家康のこと  
*4)紀州徳川家所蔵の調度品の蒔絵に用いた葵紋、家康より松平左近が賜った旗の中に描かれた裏葵紋など

因みに徳川宗家の「丸に三つ葵」と『塩尻』に書かれている水戸家とされる「丸に三つ裏葵」 を示す。

徳川宗家の「丸に三つ葵」 最終形

『塩尻』において水戸家とされる「丸に三つ裏葵」