2015年7月7日火曜日

朝倉氏の末裔・・家臣の悲壮な思いが子孫を守る

滅亡した越前の名族の末裔が
越後越前浜に生き続け、その霊が子孫を守る・・・

歴史家:山下克典と山下卯三郎2代による調査結果を詩にまとめたもの
 『歴史と旅』増刊号 秋田書店 平成3年 より抜粋

「越前浜の歴史」・・

一)織田の火攻めに、城落ちて
主君の義景、果てたあと
命に代えて、与三左衛門
愛王丸の、ともをする

二)百姓姿に、身をやつし
   小舟に主従、二十八
    涙も頬に、三里浜
     落ちゆく月の、能登の海

三)世が世であれば、若君と
裃姿で、仕えるに 
  越後の国の、蒲原で
   鍬を持つ手の、男哭き

四)くにに残せし、菩提寺を
憶うて建てる、西遊寺
  御堂の甍、風強く
   再起の悲願、道遠し

五)一乗谷の、城偲び
萬感胸に、植えた松
  一本松と、人は呼ぶ
  四〇〇年の、武者の夢


2015年3月12日木曜日

都道府県の県章

先日の愛知県高校入試問題をきっかけに「県章」について簡単にまとめてみました。

都道府県章のデザインにはその風土・歴史・文化などが象徴的に表現されている。
それらを分類すると

1、都道府県名にある文字(読み仮名ないし漢字、アルファベット)の一部もしくは全てをデザインに採用したもの

2、地形を抽象化したデザインしたもの

3、県の代表的な産物やイメージ(県花、県木等)を抽象化したデザイン

等に分類される。

まず
1、名称をデザインしたもの


愛知県

「あいち」文字図案化し、
「旭日波頭」を表す












 岩手県

岩の字

岐阜県

「岐」の字











長崎県

NAGASAKIの「N」と
平和の象徴ハトをデフォルメ










宮崎県

日向の「日」を中心に、
「向」を三方に躍進






2、地形を抽象化 





青森県

地図形状・・1目で分かります。








静岡県

富士山と静岡県の地形
これも一目瞭然!
  







石川県

「石川」を能登半島の形状に









鹿児島県

地形を図案化中の赤は桜島













3、県産物をデザイン





茨城県

イバラをモチーフに
バラの蕾を象徴化













愛媛県

赤色は太陽とみかん、
緑色は石槌山など自然の恵み
青色は瀬戸内海











4、その他 ユニークなもの
京都府:古都の格調高い六葉形、中は「京」を人形の模様に





山形県:周囲は富士山と武田菱、中は三つの人で山梨の山






























2015年3月7日土曜日

刈谷市 史跡めぐり 野田コース

本日3月7日 史跡めぐり「野田コース」に参加しました。
刈谷市教育委員会企画、ボランティアガイドの案内で実施。
所用時間:約3時間、距離:約3.5キロ 説明ポイント15か所でした。

集合場所は八枚公園、駐車場は隣の津田工業の駐車場。
公園で受付、私は第二組17名、ガイド4名 で出発。

①宮城道雄供養塔

  なぜここに「春の海」を作曲した箏曲家宮城道雄の供養塔があるんだろう?

  箏曲家として有名な宮城道雄は関西での演奏旅行の爲、夜行列車「銀河」に乗ってたところ、 昭和31年6月、この付近で列車から転落して死亡。
刈谷市、宮城海、日本盲人会の3者によって転落現場近くに建てられたそうです。

③佐次兵衛井戸
弘法大師が通りかかり、水に困っていた農民のために、杖でつつくと「玉のような水」が湧き出たそうです。




④福島領の碑、重原陣屋跡


財政難の刈谷藩で不祥事(寛政の一揆)がおこり、一方、福島藩も赤字ながら大阪城警備のため50名もの藩士を出しでいたが困窮を極め幕府に村替え願いを出していた。
そこで幕府は、刈谷藩と福島藩の村替えの処分を下した。
これにより、2万3千石の刈谷藩は1万石となり、福島領に1万3千石の飛び地。
同じ1万3千石でも福島は石高は悪く、刈谷藩の財政はさらに厳しくなっていった。

⑥浄福寺

このお寺には福島藩士の墓が8基あった。

また、近くに住む野村伴右衛門と言う商人は福島領に建てる重原陣屋の土地の提供と
このお寺建立の資金を出した。
右の写真は、改修時に降ろしたお寺の鬼瓦で、野村伴右衛門の家紋である「笹竜胆」の紋が彫られていた。

⑩中条遺跡
最初 中条貝塚と呼ばれていたが、発掘が進むにつれて
縄文土器、瓦、勾玉、景徳鎮等がでてきた。また大きな遺構も発掘され、縄文時代から鎌倉時代までこの地域の中核都市であったとすいそくされるようになった。

⑫伊勢倉組の常夜灯
このように呼ばれているが、伊勢倉と言う地名が書かれた文献は残っていないそうです。
しかし「伊勢倉」の地名は東海各地にあるそうで、伊勢神宮に奉納するお米を蓄える倉であって
この地からすぐそばの川から船に積み伊勢神宮まで運ばれたであろうという事は十分想像できる。

この後
⑬慕井戸

⑭重原八幡社



定刻に解散場所に到着し、ガイド班長さんのあいさつで解散となった。

2015年3月3日火曜日

笠寺観音

3月2日(月)寒風吹くなか、以前から気になっていた笠寺観音にお参りしてきました。

23号線は意外と流れは良く40分弱で到着できました。

駐車場の関係で西門から入ると、


 正面に真っ赤ゲートが目に飛び込んできました。金色の笠紋(寺紋)が引き立っていました。

入口右手には風格のある二重の塔、その前にそんなに古くない石碑が目に止まりました。

近づいてみると、織田木瓜と丸に三つ葵の下に「人質交換の地」とある。

かの有名な織田信広と竹千代(後の徳川家康)の人質交換はこの地であったのか!

ここを少し進んで左手の本堂にお参りしました。
本堂

玉照姫堂

ずぶ濡れの観音様に自分の笠をかぶせる
長者にこき使われていた女(後の玉照姫)

と後日鳴海に立寄った都の貴族中将藤原兼平公は、
この心優しき娘を見初め妻とした。

南正門

笠寺観音の由緒

1、開基は善光上人
  観音像を彫り、寺を建立する。
  天林山 小松寺

2、『笠寺』の名の始まり
 前述の玉照姫と藤原兼平夫妻は現在の地に荒廃した寺を復興し、

 寺の名前を小松寺から笠覆寺(りゅうふくじ)と改めました。

  これが「笠寺」の地名の起こりとなった。